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以上、実際の戦闘に即して、大和をいかに用いるべきだったかという、いわば「戦術的」運用について語ってきた。だが大和は、日米戦争の帰趨自体を変えてしまうような、「戦略」を左右するほどのカを持った艦でもあったことを、我々は忘れてはなるまい。次に戦略的な活用法を検証してみよう。
まず、第一の戦略的活用ポイントは、「抑止力」である。日米開戦前夜の当時から、大和型戦艦の存在を公表し、日米交渉に活用すべきという主張はあった。戦艦の本質は「抑止力の象徴」であり、確かにこの意見は一理ある。
そもそも米海軍は、日米開戦1カ月前の昭和16年(1941)11月1日には、ハル国務長官を中心とする対日強硬派に、可能な限り対日戦争の勃発を遅らせるよう申し入れていた。さらに11月5日、ルーズベルト大統領に、「対日戦争を企図してほならぬ」と開戦に反対している。要するに、「日本海軍には勝てない」と言っていたのである。
それというのも当時、米海軍はイギリスへの支援に手一杯であり、また多数の艦艇を一気に建造したために熟練乗組員を方々に転出させねばならず、太平洋艦隊の練度が著しく低下していた。米海軍は、これでは日本海軍に勝つのは不可能と考えていたのである。
このような状況において、大和の存在が公表されていたならば、少なくとも米海軍の意向を汲んで、ハルノートのような最後通牒を突きつけることは延期されただろう。大和に対抗できる戦艦を造るためには、莫大な時間を要する。実は大和建造ではその施設建設に時間がかかっており、アメリカも同様に時間を取られたであろうことは間違いない。
そうなれば、日本には多くの選択肢が生まれていたはずだ。第二次大戦の転機であるドイツ軍のモスクワ攻略失敗は、まさに真珠湾攻撃と同時期に起きている。もし日米開戦が遅れていれば、日本はその結果を踏まえて、ドイツとの同盟破棄など、さらに取りうるべき手立てを考えることができたかもしれない。
しかし、それでも日米戦争が起きた場合、大和はいかに用いるべきだっただろうか。第二の戦略的活用ポイントとして、私は真珠湾攻撃をせず、当初の対米戦略どおり、艦隊決戦をすべきだったと考える。
日本が真珠湾攻撃をしていなければ、アメリカも当初の対日戦略に基づき、マーシャル諸島沖を襲撃しようとしたはずだ。アメリカ人の気質を考えても、米海軍は守りに徹するのではなく、全力で艦隊決戦を挑んできたであろう。だが、そのためにはやはり準備の日数を要する。一方、日本は大和を12月16日に竣工させており、その時期には出撃可能だった。となれば、大和は「日米艦隊決戦」に充分に間に合う。そもそも日本は、大和の完成を待って宣戦布告してもよかった。
その場合、決戦の帰趨はどうなっただろうか。当時の日米の航空戦力比は、太平洋正面では空母では10対3、航空機では2対1と日本の優勢であった。しかも米太平洋艦隊のキンメル長官は戦艦第一主義者で、航空機搭乗員を「Fly Boy」(蝿少年)と軽視しており、日本の航空部隊に対する備えは甘いと見ていい。また戦艦の砲撃においては、アメリカの決戦距離は約2万メートルで、命中率は3パーセント。対する日本海軍の砲撃の腕前は世界一で、命中率は少なくともその3倍はあった。
そうした前提を踏まえれば、艦隊決戦が生じれば、日本海軍が勝利したことは疑いようが無い。米海軍はダメージコントロールに優れているので、壊滅こそ難しいだろうが、おそらく艦隊に6~7割の損害を与えることはできたに違いない。そうすれば、アメリカはしばらく反撃できず、戦争は長期化しただろう。アメリカ国民の厭戦気分はいやが上にも増し、その後の戦争の推移は、大いに日本有利になったと考えることができる。
大和の有効な戦略的活用ポイントは、もうひとつ挙げられる。それは、インド洋への投入である。真珠湾攻撃の成功後、日本海軍は昭和17年4月に、南雲機動部隊をインド洋に派遣し、セイロン沖海戦でイギリス東洋艦隊を痛撃した。この作戦終了後、日本海軍は大和以下の水上部隊主力をインド洋に投入し、通商破壊作戦に従事させるべきであった。
連合国、とりわけイギリスにとって、インド洋はアジア、アフリカとヨーロッパを結ぶ交通の要衝で、戦争遂行上、欠くことのできない補給の動脈だった。イギリス本国はオーストラリアからインド洋を経て食糧を、アフリカのイギリス軍は地中海をドイツに押さえられたために、インド洋を通じて軍需物資を得ていた。インド洋はまさにイギリスの命綱であり、それを断ち切ることができれば、イギリスを窮地に陥れ、第二次大戦の帰趨も大きく変わったに違いない。
しかもこの通商破壊作戦は、極めて成功する可能性が高かった。当時の英海軍は、マレー沖海戦とセイロン沖海戦に敗れ、アフリカへの後退を余儀なくされていた。さらに、英海軍は独海軍に対抗するために、本国や地中海のマルタ島にも戦力を割かねばならず、インド洋に艦艇を派遣する余力はない。
このような状況で大和と護衛用の小型空母を派遣していれば、インド洋の制海権はまず確保できたであろう。その時、大きな影響が生じるのは北アフリカ戦線である。昭和17年5月から、ドイツのロンメル将軍が北アフリカで快進撃を始めていた。この時、大和を中心とする日本海軍がインド洋を制していれば、アフリカのイギリス軍はロンメルの進軍を阻止できなくなる。やがて、ロンメルはスエズ運河を占領し、中東の石油を確保。さらに、スエズ運河を通じて、日独の中東での連絡も達成され、日本にも中東の石油が送られることになっただろう。
こうした日独の優勢が続けば、インドとアラブ諸国に与える影響は計り知れない。インドではただでさえ、緒戦における日本の快進撃を受けて、反英闘争が激化していた。そうした状況で日本海軍がインド洋を押さえれば、インドの独立運動は手に負えないほど激しくなっただろう。その独立運動の熱気はやがてアラブ諸斑にも波及し、イギリスが極めて深刻な打撃を受けたことは疑いようがない。
このように、大和の有効な運用方法は、いくらでもあった。大和は決して「無用の長物」などではなく、個々の海戦のみならず、第二次世界大戦の帰趨をも、劇的に変えてしまう力を持っていたのである。