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日本を取り巻くアジア情勢の変化 世界の情報を辛口で伝える情報部ログ 世の中はめまぐるしくかわっていきます その中で取り残されない為の情報をお伝えします Changing Asian situation surrounding Japan Tell the world information by information Department log The world is rapidly mood In order not to lag behind in its informed the <a href="https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=3BDZ68+72TSYA+4IRQ+5YJRM" rel="nofollow">なんでもまとめてお売りください!宅配買取「いーあきんど」</a> <img border="0" width="1" height="1" src="https://www19.a8.net/0.gif?a8mat=3BDZ68+72TSYA+4IRQ+5YJRM" alt="">
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キムソンジン氏とは、テープのやりとり以外でも会うことがあった。
「近くに来たので一緒に食事をしよう」
【画像】人を射撃するときはこのように・・・人民軍の秘密
昼飯時に電話がかかってきた。韓国文化放送の近くまで来たという。僕が到着した時には、ヘムルタン・魚介の赤いスープがグツグツと煮えていた。韓国の赤い辛いスープは、魚の旨味と良くマッチした。僕の一番好きな料理の一つだ。
一対一のランチかと思いきや子供を含む家族4人で来ていた。
「こちらは妻、そして息子、おばさん」
妻と紹介された人物はキムソンジン氏と同じ年くらい。40歳前後か。息子はまだ、小学校にもあがっていないくらいか。もう一人の「おばさん」は血縁かどうかわからないが、もっぱら長男の面倒をみていた。
「シオナダ(涼しい)」
韓国では、辛いスープを飲むときに、この言葉が良く聞かれる。辛いがその後に涼しさが感じられるということらしい。家族に交じって、僕もヘムルタンを堪能した。韓国では、たくさん食べていないと、必ず「美味しくないのか」と聞かれ、気まずくなったことが何度かあったので、たくさん食べた。
韓国では割り勘は「なし」だった。年上か上司がおごるのが当たり前なのだ。僕とソンジン氏の関係でいうと、僕のほうが年上だったが、仕事上の上下関係はない。
東京では何でも割り勘で、僕は韓国のこういう所を気に入っていた。呼び出された立場だったが、この昼食は僕がごちそうした。その後も、もっぱら僕が奢り、ある時はソンジン氏にごちそうしてもらった。
別のある日「一杯やろう」と言われてでかけると、長男と二人で来ていた。奥さんに子守を任されたというところか。ソンジン氏は、何故か椅子の席は好まなかった。一緒に食事をする時は大抵、靴を脱いで座敷に胡坐をかいてすわるスタイルの店だった。
酒を注ぎあう僕らを横目に、まだ幼い息子は落ち着きなく座敷を走り回っていた。見兼ねて僕が「ハジマ」(やめな)と注意すると、ソンジン氏は血相を変えて「ハジマラゴハジマ」(やめろと言うな)と遮ってきた。年をとってからできた1人子だから可愛いくて仕方がないのか、それとも教育方針だったのかはわからない。3人兄弟の次男の僕には理解ができなかった。
子供は動物と同じで放置しておけば、自由にふるまう。社会生活に適応するためには、大人が注意することが必要だろう。そう思ったが、それ以上踏み込むことはやめた
ソンジン氏は、自分が提供したテープが東京でどう放送されたか知りたがった。僕が労働鍛錬隊の部分を使ったと説明すると、「やっぱり労働鍛錬隊か」と返して来た。笑っていたが、こんなことも言った。
「極端な姿ばかりが伝えられている。北朝鮮の人の一般の生活を伝えたい。自分で編集してみたい。編集の仕方を教えてくれないか。」
「いつか、そうしよう」と僕は短く答えただけだった。
SONYのマイクロテープのビデオを一つ再生用に買った。ヨンサンという東京の秋葉原のような電気街一角に売っていたのを見つけた。この製品はどこにでも置いているわけではなく、ヨンサンの電気街でも置いてない店舗がほとんどだった。
「提供を受けたカメラは大きすぎるため、目立って撮影に使えない」
成果を上げていることを評価し、今後の期待を含めて、僕は再生用に持っていたカメラを彼に渡し、新たに1つ買い足す羽目になった。お金をかけているので、回収する必要もある。
「政治犯収容所やミサイル工場、核施設などが撮影できないか」
僕はハードルの高い話を持ちかけた。ソンジン氏は返事もせず笑っていた。
ソンジン氏とは、いろんなものを食べたが、いつも韓国料理だった。江東の彼の知っている店での待ち合わせで、サムギョプサルや鍋を食べたがどこも美味かった。ガイドブックにも載っていないが、ソウル観光といえば明洞や江南ばかり。こうした郊外の店があまり知られていないのはもったいない。食事と一緒に飲む酒は韓国焼酎だったが、飲み方が尋常ではなかった。
ある日、鰻も食べに行った。韓国の鰻は焼き肉のように客の目の前で焼く、まる一匹が網の上にのせられ、ある程度焼けてくるとハサミでカット、そして塩・醤油・辛い味噌の3つのたれのうちの一つを塗って食べるのだ。鰻を一口食べるごとに、小さな杯で韓国焼酎を一気に飲み干す。
「旨い」と一口食べては一気、一口食べて「旨い」と言っては一気と、これを繰り返すのであっという間に小さな瓶は空いてしまう。気が付けば1人7本、合わせて14本飲んでしまっていた。
普段は自分のことを語りたがらないが、飲むと饒舌だった。
「自分は朝鮮人民軍の外貨稼ぎ担当で、香港にいた。国情院(韓国の情報機関、国家情報院の略称)に誘われて家族で脱北した」
「脱北した直後は、国家情報院(韓国の情報機関)のために働いていた。」
脱北者は、韓国に来ると一定期間調査を受ける。どこに住んでいて、その町の様子はどうで、だれが住んでいた。韓国に居ながらにして町の地図は出来上がっている。そして、同じ町に住んでいた脱北者が来ると、矛盾がないか確認され、情報は更新されていく。政府や軍の関係の仕事をしていた脱北者の場合は、単なる地域だけでなく政府や軍の内部の権力構造の地図を作るのに貢献しているということだろうか、その地位に応じて、国家情報院で働くことになるようだ。
「現在は、北朝鮮との間で貿易をしている。鉄鉱石やマグネシウムを輸入して大手企業に売っている。」
脱北者というと韓国では日陰者の生活を送っているというイメージをもっていたが、ソンジン氏はビジネスで成功を収めているというのだ。
「韓国と北朝鮮の間の貿易は制限されているのでは」と問うと、「今は南北関係が良いのでそれほど締め付けは厳しくない。中国を通せば、買ってくれる韓国の企業はいくらでもある」
実際、生活にも余裕があるように見えた。紺色の車は、うちの事務所の韓国人スタッフより高級車だったし、家族が不在の時に家にも招待されたことがあるが、郊外の5LDKのマンションに住んでいた。例の落ち着きのない息子も、見てくれは江南に住むお金持ちの子息だった
彼が持って来るものは、映像ばかりではなかった。金正日の名前で出された通知文のようなものを沢山くれた。紙質は藁半紙以下。北朝鮮が製紙の分野で相当苦労している様子がうかがえる。ハングルが読めるようになった僕でも、判別がむつかしい印刷のものもあった。辞書を片手に奮闘したこともあり、韓国人スタッフに翻訳を頼んだりもしたが、残念ながらネタになる内容ではなかった。
教科書なども持ってきたが紙質は同様だった。北朝鮮の教科書は韓国で一般市民にも公開されている統一部の図書館にもあった。昔の植民地時代の通貨も持ってきた。伊藤博文が印刷してあるやつだ。しかし、昔の通貨は、ソウル市内のコインショップにも山ほど置いてあった。わざわざ北から持ってきたものとは言え、それほど価値のないものだった。
「この美術書はどうだ」
日本画の写真に解説が添えられている。植民地時代に半島にわたってきた美術書だ。
ソンジン氏の熱意を感じて僕は、ネタにはならないと思いながらも調べてあげた。美術書が所蔵されている日本国内の美術館をネットで検索し、電話で職員にどのくらい価値のあるものか聞いてみた。残念ながら、国内には数百冊残っているとのことで、そこから価値を推察してくれとのことだった。
「オルマドアンデヨ(それほどお金にならない)」と僕は率直に説明した。
期待ほど価値がないことを知ってソンジン氏はがっかりした様子だった。
「こうした資料のある北朝鮮倉庫の人と繋がっている」と言って本を持って帰っていった。お金になると思われるものは、ドンドン北朝鮮から持ち出していたということか。
朝鮮人民軍の兵士の教科書のような冊子もあった。地上戦、海上戦の際、気象条件や地理的条件に応じた戦い方が細かく書いてある。これはネタになると思い、本社の軍事専門の記者あてに、出張者に運んでもらった。複数の軍事専門家に見せて意見を聞いてもらったが、結局、ネタにはならなかった。ただ、この資料は別のところでは役にたった。
当時、日本からは、警察庁、公安調査庁、内閣情報室の職員が時折ソウルに来ていて、数人と情報交換のために酒を酌み交わしていた。このうちの一人に朝鮮人民軍の教科書のコピーを見せたところ、是非ともほしいと興奮気味に求めてきた。コピーの一部を渡したが、後に「関係省庁で共有された」とかで、出世の一助になったようだった。
ソンジン氏から怒って電話がかかってきたことがあった。
テープが入荷すると、顔を隠し音声を変換したインタビューを撮っていたが、支局の韓国人スタッフの一人が国家情報院にソンジン氏のことを話したために、パスポートを取り上げられ出国禁止になったというのだ。北朝鮮からの輸入を生業にしている彼にとっては大きな打撃である。
ソンジン氏は貿易のために、中朝国境地帯の延吉に良く足を運び、北朝鮮に出入り自由な朝鮮族の中国人を使って北朝鮮にいる知り合いと取引していたようだ。
「テープが明日、延吉に届く、自分の代わりに行って受け取ってきてくれ」
こうして、筆者は北朝鮮映像を受け取りに単身、中朝国境地帯の延吉へむかうことになった
キムソンジン氏とは、テープのやりとり以外でも会うことがあった。
「近くに来たので一緒に食事をしよう」
【画像】人を射撃するときはこのように・・・人民軍の秘密
昼飯時に電話がかかってきた。韓国文化放送の近くまで来たという。僕が到着した時には、ヘムルタン・魚介の赤いスープがグツグツと煮えていた。韓国の赤い辛いスープは、魚の旨味と良くマッチした。僕の一番好きな料理の一つだ。
一対一のランチかと思いきや子供を含む家族4人で来ていた。
「こちらは妻、そして息子、おばさん」
妻と紹介された人物はキムソンジン氏と同じ年くらい。40歳前後か。息子はまだ、小学校にもあがっていないくらいか。もう一人の「おばさん」は血縁かどうかわからないが、もっぱら長男の面倒をみていた。
「シオナダ(涼しい)」
韓国では、辛いスープを飲むときに、この言葉が良く聞かれる。辛いがその後に涼しさが感じられるということらしい。家族に交じって、僕もヘムルタンを堪能した。韓国では、たくさん食べていないと、必ず「美味しくないのか」と聞かれ、気まずくなったことが何度かあったので、たくさん食べた。
韓国では割り勘は「なし」だった。年上か上司がおごるのが当たり前なのだ。僕とソンジン氏の関係でいうと、僕のほうが年上だったが、仕事上の上下関係はない。
東京では何でも割り勘で、僕は韓国のこういう所を気に入っていた。呼び出された立場だったが、この昼食は僕がごちそうした。その後も、もっぱら僕が奢り、ある時はソンジン氏にごちそうしてもらった。
別のある日「一杯やろう」と言われてでかけると、長男と二人で来ていた。奥さんに子守を任されたというところか。ソンジン氏は、何故か椅子の席は好まなかった。一緒に食事をする時は大抵、靴を脱いで座敷に胡坐をかいてすわるスタイルの店だった。
酒を注ぎあう僕らを横目に、まだ幼い息子は落ち着きなく座敷を走り回っていた。見兼ねて僕が「ハジマ」(やめな)と注意すると、ソンジン氏は血相を変えて「ハジマラゴハジマ」(やめろと言うな)と遮ってきた。年をとってからできた1人子だから可愛いくて仕方がないのか、それとも教育方針だったのかはわからない。3人兄弟の次男の僕には理解ができなかった。
子供は動物と同じで放置しておけば、自由にふるまう。社会生活に適応するためには、大人が注意することが必要だろう。そう思ったが、それ以上踏み込むことはやめた
ソンジン氏は、自分が提供したテープが東京でどう放送されたか知りたがった。僕が労働鍛錬隊の部分を使ったと説明すると、「やっぱり労働鍛錬隊か」と返して来た。笑っていたが、こんなことも言った。
「極端な姿ばかりが伝えられている。北朝鮮の人の一般の生活を伝えたい。自分で編集してみたい。編集の仕方を教えてくれないか。」
「いつか、そうしよう」と僕は短く答えただけだった。
SONYのマイクロテープのビデオを一つ再生用に買った。ヨンサンという東京の秋葉原のような電気街一角に売っていたのを見つけた。この製品はどこにでも置いているわけではなく、ヨンサンの電気街でも置いてない店舗がほとんどだった。
「提供を受けたカメラは大きすぎるため、目立って撮影に使えない」
成果を上げていることを評価し、今後の期待を含めて、僕は再生用に持っていたカメラを彼に渡し、新たに1つ買い足す羽目になった。お金をかけているので、回収する必要もある。
「政治犯収容所やミサイル工場、核施設などが撮影できないか」
僕はハードルの高い話を持ちかけた。ソンジン氏は返事もせず笑っていた。
ソンジン氏とは、いろんなものを食べたが、いつも韓国料理だった。江東の彼の知っている店での待ち合わせで、サムギョプサルや鍋を食べたがどこも美味かった。ガイドブックにも載っていないが、ソウル観光といえば明洞や江南ばかり。こうした郊外の店があまり知られていないのはもったいない。食事と一緒に飲む酒は韓国焼酎だったが、飲み方が尋常ではなかった。
ある日、鰻も食べに行った。韓国の鰻は焼き肉のように客の目の前で焼く、まる一匹が網の上にのせられ、ある程度焼けてくるとハサミでカット、そして塩・醤油・辛い味噌の3つのたれのうちの一つを塗って食べるのだ。鰻を一口食べるごとに、小さな杯で韓国焼酎を一気に飲み干す。
「旨い」と一口食べては一気、一口食べて「旨い」と言っては一気と、これを繰り返すのであっという間に小さな瓶は空いてしまう。気が付けば1人7本、合わせて14本飲んでしまっていた。
普段は自分のことを語りたがらないが、飲むと饒舌だった。
「自分は朝鮮人民軍の外貨稼ぎ担当で、香港にいた。国情院(韓国の情報機関、国家情報院の略称)に誘われて家族で脱北した」
「脱北した直後は、国家情報院(韓国の情報機関)のために働いていた。」
脱北者は、韓国に来ると一定期間調査を受ける。どこに住んでいて、その町の様子はどうで、だれが住んでいた。韓国に居ながらにして町の地図は出来上がっている。そして、同じ町に住んでいた脱北者が来ると、矛盾がないか確認され、情報は更新されていく。政府や軍の関係の仕事をしていた脱北者の場合は、単なる地域だけでなく政府や軍の内部の権力構造の地図を作るのに貢献しているということだろうか、その地位に応じて、国家情報院で働くことになるようだ。
「現在は、北朝鮮との間で貿易をしている。鉄鉱石やマグネシウムを輸入して大手企業に売っている。」
脱北者というと韓国では日陰者の生活を送っているというイメージをもっていたが、ソンジン氏はビジネスで成功を収めているというのだ。
「韓国と北朝鮮の間の貿易は制限されているのでは」と問うと、「今は南北関係が良いのでそれほど締め付けは厳しくない。中国を通せば、買ってくれる韓国の企業はいくらでもある」
実際、生活にも余裕があるように見えた。紺色の車は、うちの事務所の韓国人スタッフより高級車だったし、家族が不在の時に家にも招待されたことがあるが、郊外の5LDKのマンションに住んでいた。例の落ち着きのない息子も、見てくれは江南に住むお金持ちの子息だった
彼が持って来るものは、映像ばかりではなかった。金正日の名前で出された通知文のようなものを沢山くれた。紙質は藁半紙以下。北朝鮮が製紙の分野で相当苦労している様子がうかがえる。ハングルが読めるようになった僕でも、判別がむつかしい印刷のものもあった。辞書を片手に奮闘したこともあり、韓国人スタッフに翻訳を頼んだりもしたが、残念ながらネタになる内容ではなかった。
教科書なども持ってきたが紙質は同様だった。北朝鮮の教科書は韓国で一般市民にも公開されている統一部の図書館にもあった。昔の植民地時代の通貨も持ってきた。伊藤博文が印刷してあるやつだ。しかし、昔の通貨は、ソウル市内のコインショップにも山ほど置いてあった。わざわざ北から持ってきたものとは言え、それほど価値のないものだった。
「この美術書はどうだ」
日本画の写真に解説が添えられている。植民地時代に半島にわたってきた美術書だ。
ソンジン氏の熱意を感じて僕は、ネタにはならないと思いながらも調べてあげた。美術書が所蔵されている日本国内の美術館をネットで検索し、電話で職員にどのくらい価値のあるものか聞いてみた。残念ながら、国内には数百冊残っているとのことで、そこから価値を推察してくれとのことだった。
「オルマドアンデヨ(それほどお金にならない)」と僕は率直に説明した。
期待ほど価値がないことを知ってソンジン氏はがっかりした様子だった。
「こうした資料のある北朝鮮倉庫の人と繋がっている」と言って本を持って帰っていった。お金になると思われるものは、ドンドン北朝鮮から持ち出していたということか。
朝鮮人民軍の兵士の教科書のような冊子もあった。地上戦、海上戦の際、気象条件や地理的条件に応じた戦い方が細かく書いてある。これはネタになると思い、本社の軍事専門の記者あてに、出張者に運んでもらった。複数の軍事専門家に見せて意見を聞いてもらったが、結局、ネタにはならなかった。ただ、この資料は別のところでは役にたった。
当時、日本からは、警察庁、公安調査庁、内閣情報室の職員が時折ソウルに来ていて、数人と情報交換のために酒を酌み交わしていた。このうちの一人に朝鮮人民軍の教科書のコピーを見せたところ、是非ともほしいと興奮気味に求めてきた。コピーの一部を渡したが、後に「関係省庁で共有された」とかで、出世の一助になったようだった。
ソンジン氏から怒って電話がかかってきたことがあった。
テープが入荷すると、顔を隠し音声を変換したインタビューを撮っていたが、支局の韓国人スタッフの一人が国家情報院にソンジン氏のことを話したために、パスポートを取り上げられ出国禁止になったというのだ。北朝鮮からの輸入を生業にしている彼にとっては大きな打撃である。
ソンジン氏は貿易のために、中朝国境地帯の延吉に良く足を運び、北朝鮮に出入り自由な朝鮮族の中国人を使って北朝鮮にいる知り合いと取引していたようだ。
「テープが明日、延吉に届く、自分の代わりに行って受け取ってきてくれ」
こうして、筆者は北朝鮮映像を受け取りに単身、中朝国境地帯の延吉へむかうことになった