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(和歌山支局 土屋宏剛)
写真に添えられた手書きのメッセージ
作品を知ったきっかけは、和歌山市和歌浦南の片男波公園・万葉館で行われていた徳田直季さん(53)の写真展「素直な季持(きも)ち」の取材だった。
和歌浦の海の風景を切り取った写真が並び、一枚一枚に柔らかい手書きの文字でメッセージが添えてあった。「前を向いている限りきっと近づいているのです」。朝日に輝く海の写真には、こんな言葉が書かれていた。冬の雪解けの畑から顔をのぞかせた白菜の写真には、「春は心の中からやって来る」とも。
難しい表現や言葉を使っているわけではないのに、力強い言葉が心に響いた。どうしても本人を取材したいと思い、すぐに連絡を取った。
初めて会った徳田さんは、ニコニコと人懐こい笑顔で迎えてくれた。「何でも聞いてくれてええよ」。新人記者にとって救われる言葉をかけられて、緊張が少しだけほぐれる
そして、徳田さんへのインタビューが始まった。
クーラーもかけず、息を潜めて張り込み
もともと和歌山市に住んでいた徳田さんは、23歳で写真家を志して東京へ。写真週刊誌のカメラマンになった。当時はバブル全盛時代で、「FOCUS」「FRIDAY」などの写真週刊誌が次々と発刊されてしのぎを削っていた。「和歌山は退屈な街だった。とにかく外の世界に飛び出したかったんや」と振り返る。
しかし、プロの世界は甘くはなかった。
事件が起きれば、何日も現場に張り込むことはしばしば。疑惑が浮上した企業の社長の姿を撮影するために、夏の炎天下、車の中で何日も缶詰め状態になったこともあったという。張り込み中は、クーラーをかけることはNG。エンジン音が響き、張り込みがバレるおそれがあるからだ。
あまりの暑さに耐えきれず大きく息を吸うと、一緒に張り込んでいたベテランカメラマンが「息をするな」と一喝した。深く息をすると、車が揺れて中に人がいることが分かってしまうためだった。
こんなこともあった。海外の有名俳優が来日したとき、空港で他社の誰よりも早く陣取って準備していた。ようやく俳優が登場するころになって、他社のベテランカメラマンがやってきた。ひたすらシャッターを押し続ける徳田さんを横目に、ベテランカメラマンは立ち位置も角度も悪い場所から「ヘイ、ミスター」と声をかけた。俳優は、その声の方へ一瞬だけ視線を向けて手で軽くあいさつを返した。ベテランカメラマンはその一瞬を逃さず絶妙の写真を撮っていった。
「何時間も前から準備して、何十枚も必死に撮影したのに…。自分よりはるかに良い一枚やった。恥ずかしくて悔しかったよ」
韓国での取材は逃げるだけだった
ピューリッツアー賞を獲得するような写真家に憧れて、学生デモが頻発した韓国に乗り込んだこともあった。ところが、いざ現場に行くと写真を撮る余裕など全くなかった。学生たちは目を血走らせて殺気立っていた。撮影しようと近寄ると、逆に火炎ビンを持った学生が襲ってきた。
「殺されると思った。市民と一緒に必死に逃げるだけだった。写真は一枚も撮れなかった」とポツリ。「賞をもらうような戦場カメラマンは、命を投げ出してでも写真を撮ってくる。自分は写真に命をかけられなかった」。不安が一気にこみ上げてきたという。
バブル時代が終わると、極端に仕事が減った。上司から指示された現場に走るだけの日々が続いた。「本当にこれが撮りたい写真なのか」という迷いと「写真だけで飯は食えない」という焦りの板挟みに陥った。
そんななかでも、評価の高いカメラマンは別の社へ引き抜かれていくが、徳田さんに声はかからなかった。「悔しかった。自分と何が違うのか分からなかった」。気がつけば、30歳になっていた。
故郷の夕日を見て、再びわき上がった情熱
結局は、夢破れて、故郷に帰ってきた。落ち込んでいたある日、和歌山の海を見て、夕日と海のあまりの美しさに、忘れていた写真への情熱が再びわき上がってきた。
再び写真家になるために、和歌山で風景などを撮り続けた。「作品を見てもらうためなら何でもやったよ」。収穫後の田んぼのかかしに作品を掲げてみたり、通りの中央にポスターのように並べたこともあった。
試行錯誤を続ける中で、現在の徳田さんのスタイルである写真に文字を添えた作品が生まれていった。
「自分の出した答えにつまずくな」。険しい山道の中に続く1本の獣道を撮影した写真に添えた。和歌浦の荒波を受け止める巨岩を撮影した写真には「努力の道に落とし穴はない」との言葉を書き込んだ。
20代で上京して苦悩を続けた写真週刊誌のカメラマン時代の経験からにじみ出た言葉の数々。駆け出し記者の心の奥にじわりとしみ込み、前向きに生きようという気持ちになるほどの力がこもっていた。
目標を達成するために大事なことは何ですか-。取材の最後に聞いてみた。
「自分が諦めたくないなら、毎日コツコツ続けること。僕はずっと長い間、写真と言葉、それと手書きの文字の3つを書き続けてるんだ」
記者生活を歩んでいくうえで、徳田さんの写真と言葉から、大きな勇気をいただいた