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中国側が「犠牲者30万人以上」と主張する南京事件(昭和12年12月)から1カ月弱の時期に撮られた中国国民党の放送・通信施設や市内の写真が残されている。東京裁判は、日本軍の占領後1カ月~6週間にわたって多数の強姦(ごうかん)事件や放火などが続いたとしたが、写真には平穏な街や市民が写っており、混乱は見えない。(喜多由浩)
放送スタジオ「中央党部内演奏所」(提供写真)
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写真を撮ったのは、満州電信電話の技術者だった杉山友勝さん(昭和62年、81歳で死去)。メモによれば、13年元旦から関東軍の指示で上海・南京地区の通信施設の防空設備視察のために同僚3人と出張。南京へは陥落(12年12月13日)から1カ月弱の13年1月7~10日に訪れている。
同社は日本と満州国が出資して8年に設立された通信と放送の国策会社で、杉山さんらの出張は、日中戦争発生後に「北支、中支、南支に社員を派遣した」という、18年発行の同社十年史の記述とも一致する。
写真は、中国・国民党軍が南京退却時に残していった放送スタジオ「中央党部内演奏所」や北極閣(気象天文台)の地下に置かれていた「軍通信司令部」など放送・通信施設を中心に撮影。また、欧米人が国際委員会を組織し南京市民が避難した安全区(難民区)内や同地区以外の城内、城外の街や市民の様子を写したものなど数十枚に及ぶ。
いわゆる“大虐殺派”が根拠にした欧米人による日本軍残虐行為の「証言」は陥落後1週間前後に集中しているが、東京裁判判決などは、それが「1カ月~6週間も続いた」とした。
だが、写真を見る限り、街や市民は平穏を取り戻した様子で混乱はうかがえない。陥落から数カ月過ぎても「3万体の死体が横たわっていた」などとされた揚子江岸の下関(シャーカン)付近を撮った写真は閑散としているし、城壁の上から城内を撮った写真も放火が続発しているように見えない。
南京事件問題研究家の阿羅(あら)健一さんは、「写真を見る限り、平穏、閑散としており、東京裁判判決や欧米人の証言にあった『死体がごろごろあった』『放火、略奪、強姦が続いていた』様子には見えない」という。
一方、亜細亜大の東中野修道教授は「あくまで一部を撮った写真で、全体の様子を知るのは難しいのではないか。ただ『清野(せいや)作戦』と称して国民党軍が破壊していった放送・通信施設を撮った写真は他にはなく、極めて貴重な資料だ」と話している。
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【用語解説】南京事件についての東京裁判判決
日本兵によるさまざまな虐殺行為があり、全市内で殺人、強姦、略奪、放火が行われた、とし、占領後最初の1カ月間に2万の強姦事件が市内で発生、商業施設、一般人の住宅への放火は6週間も続き、全市の約3分の1が破壊されたとしている。日本軍が占領してから最初の6週間に南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は20万以上、としている。