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江沢民と中山服
読者の方々は江沢民が中国の国家主席として来日した時のことを覚えておられるだろうか。平成10(1998)年11月のことである。そして彼は宮中晩餐会において、場所柄もわきまえない非礼極まる発言をした。
「近代史上、日本帝国主義は対外侵略拡張の誤った道を歩み、中国人民とアジアのほかの国々の人民に大きな災難をもたらし、日本人民も深くその害を受けました。『前事を忘れず、後事の戒めとする』と言います。我々はこの痛ましい歴史の教訓を永遠に汲み取らなければなりません」
マスコミは彼の発言に注目したが、私はこの時の彼の不思議な服装にも大いに注目していた。中山服を着ていたからだ。それをテレビで見ながらニヤニヤしていた。
その後、マスコミとの会見があっても、彼の着た中山服について質問する記者はいなかった。もし私がその場にいたら、以下のように聞いていただろう。
「あなたの着ていた中山服をデザインしたのは誰か知っていますか? 孫文ではありませんよ」
江沢民が「知らない」と言えば、「あなたの嫌いな日本軍人ですよ。しかも南京攻略戦に旅団を率いた人物です」と二の矢を放てば、彼はどんな顔をしただろうか。
その場は繕っても、彼は後であの中山服を引き破ったかもしれない。私は自分の新著『日本はいかにして中国との戦争に引きずり込まれたか』でその日本軍人の評伝を書いた。江沢民が存命なうちに出せることが嬉しくてたまらない。中国要人はもう二度と公式の場で中山服を着ることができないであろう。
佐々木到一は張作霖爆殺にいかに関わったか
中山服のデザインをしたのは広東駐在武官時代の帝国陸軍軍人、佐々木到一である。私にとっては石原莞爾に次ぐ、2人目の昭和史の軍人を今回扱ったわけである。
佐々木という軍人は一般的にどういう理解をされている人物なのであろうか。
まずは先に述べたように、南京攻略戦に旅団を率いた人物である。
次に、1928(昭和3)年に起きた済南事件に遭遇して、殺されかける目に遭った軍人である。
もう一つは自分が張作霖爆殺事件に関わったと『ある軍人の自伝』に述べていることである。『ある軍人の自伝』は彼の死後に発掘された手記である。私はこれが書かれた時期はおそらく昭和10年代初期と考えている。
張作霖爆殺事件に関しては、戦後河本大作の手記というのが『文藝春秋』誌に掲載されて、ほぼ定説となっていた。しかし『マオ-誰も知らなかった毛沢東』が出て以来、その定説に揺らぎが出始めた。ソ連の特務機関の犯行という説が登場してきたのである。これに応じて日本でも、『謎解き「張作霖爆殺事件」』(加藤康男著)が出版された。これには張学良の親殺しという説も書かれている。
私も佐々木の評伝を書く上において、張作霖爆殺事件に佐々木がいかに関与したかを書かざるを得ない。河本と佐々木は『ある軍人の自伝』でも書かれているように親しい関係である。彼が仲介して、東宮鉄男と河本も広東で親しくなっている。
私は蔵書の『皇帝溥儀』(工藤忠著)を再読した。工藤は満洲国皇帝溥儀の侍従長にもなった人物だが、元々は大陸浪人である。しかし彼は孫文の革命運動を援助していた山田純三郎とも縁がある、由緒正しい青森県人である。
張作霖爆殺当時、工藤はその独自の情報網を駆使して爆殺事件の背後を探った。そして事件当日の昭和3年6月4日から10日後には、日本政府に河本大作らの陰謀だと連絡を入れている。日本政府にとっても工藤ほどの情報通はいなかっただろう。
実際の爆破を行なったのは、東宮鉄男中尉(当時)である。東宮は支那事変で戦死した後、その人格と武勲が評価され、満洲のチャムスには記念館が建てられ、『東宮鉄男傳』という伝記も戦時中に作られている。彼が克明につけていた日記も伝記に紹介されている。しかし張作霖爆殺事件の前後、2週間ほどその記述はわざと省かれている。
私はどう考えても、河本、東宮が関与したのは否定できまいと思う。問題は工藤が『皇帝溥儀』で書いている張作霖政権の反日活動である。張作霖は親日で、日本軍が顧問を付けていたではないかという人もいようが、それ以上に当時の張作霖の反日活動はひどくなっていたのである。その事件の数々を新著で詳しく紹介した。関東軍だけが張作霖を批判していたのではない。満洲の日本居留民たちが激昂し、張作霖に農作をする権利を横暴に奪われるなどしていじめられる朝鮮人農民らは日本政府による保護を強く求めていたのである。
河本自身が満洲で耕す朝鮮農民を憐れんでいる証言も新著に出した。張作霖爆殺事件のひと月半前に磯谷廉介宛てに書いた河本の《爆殺予告》の手紙のコピーも私の手元にある。
張作霖政権が親日に見えていたのは、張作霖の幕僚に王永江という満洲モンロー主義を掲げていた知性豊かな親日の人物がいたからこそのことである。彼も最後は張作霖を見限ったのである。河本も本当の親日派である王永江と親しくしていたのは間違いない。
満洲の張作霖の反日行為を憂慮していたのは、広東駐在武官の佐々木到一である。彼は現役武官時代に6冊も本を出すジャーナリスト性があり、昭和2年9月には『武漢乎南京乎』を出版している。なんとそれに張作霖の参謀長である楊宇霆に、「第二の郭松齢になれ」と堂々と書いている。郭松齢は1925年に張作霖に反逆して、逆に討伐されてしまった張の元配下である。佐々木は知人である楊宇霆に反逆を勧めていたのである。
楊宇霆は日本の陸軍士官学校を出ており、満洲でも日本人と付き合いの多い人物である。不思議なのは張作霖が乗る列車が爆破されてから、楊宇霆がなぜか故郷に帰ったまま奉天にも戻らないことである。
事件翌年の1929(昭和4)年1月11日、張学良は楊宇霆と彼の配下の常蔭槐を呼び出し、射殺した。その八日後の『満洲日日新聞』には、張学良が「張作霖爆殺の真犯人は楊宇霆だ」と発表したと出ている。その2日後には殺害関係者にロシア人5名がいると記事が続く。しかしこのロシア人は特務機関でなく、金に困っていた亡命ロシア人たちのようだ。
ただ当時の情報が錯綜していたかもしれず、亡命ロシア人を装った特務機関員だった可能性はある。事件前年の1927年4月に張作霖は北京のソ連大使館を強制捜査しており、ソ連と国交断絶の険悪な関係になっていたことは確かなのである。
河本と楊宇霆の間に連絡があったのは日本政府も知っていた。これは外交文書に報告書がある。つまりソ連と日本の願望が偶然一致した可能性はある。従って爆殺事件へのソ連関与説は成り立ち得るが、私は限りなく小さいと考える。
これ以上のことは拙著を読んでもらうにして、河本も東宮も個人的な張作霖憎しの念で行動したのではない。満洲における日清日露の戦いの尊い犠牲のもとに築かれた日本の権益を保持するためには、これしかないという最後の手段を彼らは選択したのである。私心はなかった。
日露戦争は外債を募って始めた戦争であり、勝利したと言っても賠償金は取れず、その債務は昭和になっても残り、日本はそれを払い続けねばならなかった。日本人の血を代償に、ロシアから取り返して中国にただで返してやったその満洲で、そのお金を稼ぎだすことはおかしいことかと彼らは考えていたのである。
張作霖がやろうとしたのは日本の満洲利権の無慈悲なる回収だったのだ。息子の張学良もその遺志を受け継いで、さらなる排日手段を行使するようになった。これが満洲事変の最大原因である
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