[PR]
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
日本を取り巻くアジア情勢の変化 世界の情報を辛口で伝える情報部ログ 世の中はめまぐるしくかわっていきます その中で取り残されない為の情報をお伝えします Changing Asian situation surrounding Japan Tell the world information by information Department log The world is rapidly mood In order not to lag behind in its informed the <a href="https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=3BDZ68+72TSYA+4IRQ+5YJRM" rel="nofollow">なんでもまとめてお売りください!宅配買取「いーあきんど」</a> <img border="0" width="1" height="1" src="https://www19.a8.net/0.gif?a8mat=3BDZ68+72TSYA+4IRQ+5YJRM" alt="">
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「(新聞人の責任とは)できるだけ均衡の取れた形で、その日その日の紙面に表現し、真実を伝達することである」「その均衡感覚の著しくちがった方面から見れば、あるいは偏向という批判をあびせたくなるのかもしれぬ。だが、その批判者には借問したい。なぜ、自分と違った他人の均衡の感覚が偏向であり、自分の感覚は偏向でないか、と。かりに、他人の持っている思想や考え方が、世間の多数から外れているとしても、それが偏向であるか否かは、永い歴史の審判する所である」
この文章は、1968年10月15日「新聞人の責任」という題で掲載された朝日新聞の社説である。戦後の朝日報道の問題点を考えるとき、真っ先に思い浮かぶのがこの文章だ。現在結論ははっきり出ている。朝日報道の主流は「長い歴史の審判」によって、偏向に他ならない。しかも朝日は、過ちを認め責任を引き受けることもなく口を拭ってきた。現在話題になっている慰安婦報道は、実はその一部にすぎない。
【ソ連報道】「平和共存」の美名のもと共産党独裁の代弁者に
ソ連・東欧の共産主義独裁体制が崩壊して既に20年以上が経過した。そこで崩れ去ったのは、言論の自由、平和、民主主義、人権--といった価値観を否定する独裁・全体主義体制だった。朝日新聞は戦後、こうした価値観の擁護を高く掲げてきた。であるならば、朝日にとってソ連共産党独裁体制は「敵」であり、肯定的に報じられるはずがなかったはずだ。ところが朝日は、こうした独裁体制を一貫して擁護していたのである。
確かに欧米を含め多くの左派・リベラル派知識人が、ソ連幻想に捕らわれた時代もあった。しかし、1953年のスターリン批判、56年のハンガリー動乱、68年のチェコ進駐、そして何よりもソルジェニーツィンの「収容所群島」の発行、サハロフ博士の民主化運動への弾圧などで、ソ連が自由と民主主義の敵であることは次第に明らかになっていた。そして、1979年12月24日のアフガニスタン侵略によって、その侵略性と軍事的覇権主義は明確になった。
1978年、アフガニスタンでは人民民主党による親ソ政権が成立したが、この政権はイスラム教や反ソ武装抵抗勢力により崩壊の直前まで追いつめられた。ソ連は親ソ政権を維持するために軍事介入し、当時のアミン大統領は処刑され、バブラク・カルマル政権が樹立された。この事件を朝日新聞は、12月29日社説「アフガン・クーデターとソ連」で次のように報じた。
このカルマル政権は、ソ連の強力な支持の下に、誕生した可能性が強い」が「ソ連部隊が今度のクーデターにどの程度関与したのか、カルマル新政権がソ連のかいらい政権かどうかは、即断はできない。」「ソ連が真に『覇権主義』に反対ならば、必要最小限の援助要員以外、直ちに部隊を撤収し、アフガニスタンの運命は民族自決に任せる原則を貫徹してほしい」
ソ連がチェコ侵略以後、東側社会主義陣営を維持するために「各国の主権は制限されても構わない」というブレジネフ・ドクトリンを掲げていたことは当時すでに国際社会では常識だった。「ソ連が真に『覇権主義』に反対ならば」などとソ連を「平和勢力」としてかばい立てするその姿勢は、尾崎秀実以来の親ソの伝統ゆえか。
なお、アフガン侵攻に抗議して日本を含む世界各国がモスクワ・オリンピックをボイコットしたが、朝日新聞は断固としてオリンピック参加を唱え続けた。
このアフガニスタン侵略は、ソ連の正体を白日のもとに曝し、日本でも「ソ連脅威論」も生まれたのだが、朝日はなんと1980年11月28日から14回にわたって「ソ連は脅威か」というソ連徹底擁護の連載を掲載した。簡略すると、ソ連脅威論は根拠がなく、日本の軍事増強を企む防衛庁や一部勢力がソ連脅威論を煽っているだけであり、ソ連の軍事力は日本侵攻を果たす能力も意志もない--とする内容で、「ひたすらソ連を非人間的な悪ものに描き、恐怖をあおりたてるような論じ方は、世論や政策対応を誤らせる方向に導かないだろうか」(連載最終回)と結んでいる。
中国や北朝鮮の体制を批判する論者に朝日がしばしば投げかける言葉とそっくりである。このように中立を装いつつ独裁政権の悪を矮小化しようとする姿勢こそ、自由な社会を守る気概も、独裁体制下で呻吟する民衆への同情も共感もない西側の自称リベラル・平和主義言論の道徳的退廃なのだ。
さらに朝日は、1982年2月に社を挙げた訪ソ団を送り、チーホノフ首相との単独会見に成功するが、その時のインタビューと解説「ソ連首相と会見を終えて」(秦正流記者)は、今読めばまさに犯罪的なものである。
1980年からポーランドでは労働組合「連帯」による民主化運動が高まっていたが、81年12月、ヤルゼルスキ政権は戒厳令を敷きワレサをはじめとする「連帯」指導者を逮捕し、軍政を敷いていた。
朝日のインタビューで、チーホノフ首相は、欧米の「連帯」への支持を「主権国家であるポーランド人民共和国に粗暴な圧力を加えること」と非難し、「戒厳令は無政府状態、混乱、そして内戦からポーランドの社会を救った」と平然とうそぶいている。
ヤルゼルスキ政権の強硬策の背後にソ連の圧力があることは明らかだったが、朝日はチーホノフ首相の発言に何ら異を唱えていない。それどころか、「ソ連が今何にもまして緊急かつ重大な課題としているのは、緊張緩和(デタント)の復活である。つまり、軍拡競争を打ち止め(中略)軍縮への軌道修正を図ること」だと、まるで平和の使徒のようにソ連を見なし、「ソ連は革命以来65年(中略)今日のような巨大な工業力を作り上げ、それなりに国民生活をも向上させてきた大国だけあって、困難に耐える強さと自信を他のどの国よりももっている」と讃えたのである。
ところが、この後わずか9年でソ連が崩壊するや、朝日のソ連評価は180度転換する。1991年8月25日の社説はこう論じている。「『自由な共和国による揺るぎない連邦』スターリンの時代以来、ソ連の指導者は自国をこう讃えてきた。それは建前に過ぎず、実はどの共和国も、共産党とそれが支配する軍、KGBなどの『鉄の腕』に締めあげられてきた。中央権力は民族の文化、言語を軽んじ、時にその抹殺さえはかった。抵抗する人たちは迫害した」
また翌26日社説「ソ連共産党の崩壊と新世界」では「74年にわたってソ連に君臨し、マルクス・レーニン主義の論理と価値観をもって世界に『挑戦』しつづけてきたソ連共産党がついに崩壊した」「1956年のハンガリー動乱、あるいは68年の『プラハの春』のとき、ペレストロイカの開始でやっと公に論じられた問題点の多くが、すでに指摘されていたのである」と述べている。
ではチェコやハンガリー同様、いや、直接的にはソ連崩壊や東欧民主化の先駆けとなったポーランドの「連帯」を誹謗するソ連首相談話を恭しく紹介し、しかもソ連体制は強く安泰だと予言した82年当時の報道は何だったのか。この点について、朝日はこれまでなんら反省していない。
ついでに朝日に提言しておきたい。現在、「民族の文化、言語を軽んじ、時にその抹殺さえはか」り、「抵抗する人たちは迫害」しているのは中国である。このような体制は必ず斃れることを、歴史の教訓として堂々と表明すべきだろう。
【中国報道】文革礼賛から四人組批判に「転向」
文化大革命とは、劉少奇ら経済改革派の台頭に脅威を感じた毛沢東が、青年たちを扇動し紅衛兵運動を全国的に展開、改革派を攻撃させて毛沢東派が権力を握るが、同時に紅衛兵の暴力的な行動で全土に大混乱が生じ、伝統文化の破壊、少数民族の虐殺、知識人への迫害などが相次ぐ。そして国家秩序を維持するために人民解放軍が出動し、数百万を超える犠牲者を出した内戦に近い混乱と悲劇の時代だった。
朝日新聞1966年5月2日社説は、この文化大革命を、中国で新たな特権階層が中農や知識層の中に現れてきたことへの第二革命と評価し「そこには、いわば『道徳国家』とも言うべきものを目指すと共に、中ソ論争の課題に答えようとする『世紀に挑む実験』といった意欲も感じられなくはないのである」と述べていた。これはソ連を資本主義国と妥協する修正主義国家とみなしていた中国政府の立場を反映し、しかも文革を実態とかけ離れた「道徳国家」とみなす礼賛記事に他ならない。だが、この時期の朝日には、冷静な分析も載っていた。1966年8月31日社説「中国の文化大革命への疑問」では、街頭で壁新聞を貼り、父親の世代を糾弾し、宗教施設や古い美術品などを惜しげもなく破壊しつつ毛主席万歳を叫ぶ紅衛兵を批判的に論じている