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時代を見通す日本の基礎情報

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)「言論の自由」封殺する現実…反日・親日論争

日韓双方で1990年代初頭、韓国観や日本観に関する本が相次ぎベストセラーになった。88年のソウル五輪とそれに続く韓国人の海外旅行自由化で日本人と韓国人が接する機会が格段に増加したことが背景にある。だが、著者らは韓国で最も敏感な「反日」「親日」をめぐる論争に巻き込まれ、翻弄されていく。

 ◆日本を目指す女性たち

 韓国語に女性の強さを指す「チマ・パラン(スカートの風)」という言葉がある。韓国出身で、現拓殖大教授の呉善花(オ・ソンファ)(57)が「スカートの風」をタイトルにした本を90年に出版しベストセラーとなった。

 韓国に居場所を見いだせず、日本を目指して歓楽街のホステスなどに就く多数の韓国人女性の姿と、それを生む韓国社会のゆがみを女性の目線から描いた。韓国人のように大きな夢を語らなくとも「黙々と働く日本人の朗らかな笑顔」に共感を記した。

 「話ができる韓国人がいると知った。頑張ってください」…。呉のもとには激励する読者の手紙が殺到した。多くが韓国とのビジネスを経験した日本の中高年男性からだった。

 呉は韓国南部の済州島(チェジュド)出身。終戦まで鹿児島で暮らした母親から、子供たちの防空頭巾を縫ってくれたり、野菜や果物をくれたりした日本人の親切さを聞かされながら育った。

 だが、学校教育が母親の思いを打ち砕く。韓国人に非道を尽くした日本人像がたたき込まれ、いつしか日本をほめていた親を「恥ずかしい」と感じるようになった。

 親日的なことを公に話せない空気が流れていたが、そんな中でも島には日本や日本製品のよさを平然と口にする女性たちがいた。相反する2つの日本観を抱きながら83年に日本に留学。アルバイトで韓国人ホステスらに日本語を教える中で彼女らの境遇を知る。

 日本人ビジネスマンには韓国語を教えた。韓国の経済発展や89年からの旅行自由化で両国間の交流が増加。その分、摩擦も生まれたが、韓国人に本音を言うことを恐れる日本人を歯がゆく感じた。日本での出版を考えたのは「日韓友好というきれい事では何も進まない。考え方の違いを知ることから始めなければ」との思いからだったという。

強まる「内向き」姿勢

 「スカートの風」は韓国で反発を生む。韓国人が韓国を批判し、日本を評価する本を書いたことが「親日的背信」と受け止められたのだ。

 93年にはテレビ局の東京特派員だった田麗玉(チョン・ヨオク)(54)が逆を行く「日本はない(邦題・悲しい日本人)」を出版。同書は「われわれが手本とすべき国は日本ではない」と記し、「日本に住んだおかげで自分の国を再認識した。わが国の国民がいかに優れているか分かった」と結んでいる。

 「スカートの風」に対しては「日本人の言いたいことを代弁する」ためにゴーストライターとともに書いたはずだと全否定した。だが、皮肉にも「日本はない」の大部分が日本在住の韓国人作家、柳在順(ユ・ジェスン)(55)の原案の盗作だったとして後に敗訴が確定することになる。

 はからずも論争の当事者の一人となった柳は、父親が戦時中、九州の炭鉱で過酷な労働を強いられ、苦難の末に帰国するという経験をしていた。87年に来日するまで強い反日感情があったが、誠実で努力する日本人に触れるうちに好嫌2つの日本人観を持つようになる。

 「日本はない」に限らず、90年代に入って韓国で日本を題材にした本が次々出版された。数百万部を売り上げた「ムクゲノ花ガ咲キマシタ」など戦争で日本に打ち勝つといった仮想小説も多い。柳はこの時期を経済で韓国人が自信を持ち始めた「過渡期」だとみる。「日本を知りたいという旺盛な欲求があった。反日一辺倒でもなく、日本に学ぶべきだといった本も出版された」と説明する。

 柳自身が日本に関する本の執筆を考えたのは、経済発展しながら「なぜ日本人はきゅうきゅうとして暮らすのか」と疑問を抱いたからで、「韓国も日本と同じ道をたどるのでは」と警鐘を鳴らしたかったという。そして今、バブル崩壊後の「失われた10年」を体験した日本人同様、韓国人も余裕をなくし、互いに内向きになる中、「反日」「嫌韓」への傾斜を強めていると感じている。

韓国一有名な日本人

 呉や柳とは逆に、90年に留学で韓国に渡ったのが水野俊平(46)だ。行き先は金大中(キム・デジュン)の地盤で知られる南西部、全羅南道(チョルラナムド)の大学で、留学後も教員としてとどまった。

 水野は、韓国人の当時の日本人観について「野蛮で残虐といったイメージの半面、礼儀正しく約束を守るとみられていた」と振り返る。韓国では教科書や慰安婦問題で反日感情が高まるたびに、一方で日本に学び、日本を越えようという「克日」が叫ばれてきた。だが、水野は「日本批判の裏返しにすぎず、日本についての分析が深まることはなかった」と感じていた。

 そんな水野が98年のバラエティー番組への出演をきっかけに「全羅道方言を話す面白い日本人」として人気を集める。韓国家電「キムチ冷蔵庫」のCMに起用されるなど「よい日本人」の代名詞にされた。金大中政権下で映画や音楽など日本の大衆文化が開放されたことも背景にあった。

 だが、2005年に「陰で韓国を批判する本を書いている」とのインターネットの書き込みをきっかけに、一転してバッシングの対象になる。水野は韓国の反日現象に関する複数の著作があり、韓国語にも翻訳され、「陰で批判」はいわれない中傷だった。それでもネットの「炎上」は収まらず、「韓国一有名な日本人」だった水野は翌年、故郷の北海道に戻った。

 「日本人が日本人の立場で書くのは当然だ」。交友のあった柳在順が水野を擁護するコラムを韓国紙に寄稿したところ、日本に対し辛口批評を続けてきた柳まで「親日派だ」としてネットで攻撃された。

 90年代以降も、韓国は好感と嫌悪という2つの日本観の間で揺らいできた。だが、「親日派」としてバッシングが続く呉善花が昨年7月、韓国で入国拒否に遭ったように、“反親日”の旗印の前には言論の自由さえも封殺する。そこに韓国の現実がある。

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