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突貫作業
元への服属を求めるフビライの国書を携えて日本に渡った使節がたびたび追い返されたため、業を煮やしたフビライは武力による日本進攻を決意。軍船を造るにあたって、文永11(1274)年1月、戦艦300隻など軍船の建造を高麗に命じている。
平成23年、長崎沖の海底から弘安4(1281)年の2度目の元寇で使ったとみられる沈没船が見つかっている。ほぼ完全な状態だったため復元してみると全長が27メートルに及んだ。
これは当時の海外渡航用の貿易船と同じ構造で、一隻で100人程度の兵士が収容できる規模だったといい、1回目の進攻作戦でもこのような船を求めたことだろう。
だが、日本に大船団を出すのに風向や潮の流れなどを考えると、建造期間は半年しかなく、元が派遣したホン・タグの指揮の下、高麗は約3万人の労働者を動員して、昼夜関係なく突貫に次ぐ突貫の作業だったという。
その様子は、「疾(はや)きこと雷電のごとし。民、これに苦しむ」などと表現されている。
しかし、このときの現場を監督するキム・バンギョンは、強固な船だと期限内の完成は難しいと判断。費用が安くて簡単な構造の高麗船でしのぎ、期間内に高麗が造った船は大小900隻に達する。そして総司令官のキントが着任後の10月3日、総勢3万人以上からなる兵を収容した船団は合浦(がっぽ)(現在の大韓民国馬山)から出港する。兵の3分の2はモンゴルと中国で、あとの3分の1が高麗だった。
上陸許す
連合軍の船は、戦艦のほか上陸用舟艇、補給船などからなり、日本近海は巨大なマストがたなびく、おびただしい数の軍船で埋め尽くされていた。
時宗も高麗へ送り込んだスパイから間もなく攻めてくることを察知し、上陸が予想される九州北部の日本海沿岸に兵を配するも、まずは数で圧倒されることになる。
10月5日、対馬の小茂田浜に上陸した元・高麗連合軍により、島を守る対馬守護代、宗資(助)国ら80人の兵や島民はことごとく殺害される。
壱岐でも惨殺を繰り返し九州沿岸に迫ってきた連合軍に16、17の両日、肥前・松浦や平戸島、鷹島などが次々に攻められ、討たれた兵の数は数百にのぼったともいわれている。
対馬、壱岐での敗戦の報に接した御家人らはただちに九州の拠点・大宰府へ向かい、その結果、九州の御家人を統括する鎮西奉行・少弐資能(しょうにすけよし)の3男、景資(かげすけ)を総大将に集まった兵は約1万人。
だが、元・高麗連合軍の動きは早く、20日に主力部隊の博多上陸を許す。3方から上陸する兵力は2万人で、日本側の数はその半分に満たなかったのだが、それでも士気は高かった。
ひるまない武士
当時の御家人は戦(いくさ)で手柄をあげては、恩賞として新しい土地をもらうことを誉れとしていた。このため、われ真っ先に敵陣に突っ込んで功を競うことこそが潔(いさぎよ)い戦い方だった。
御家人からすれば後鳥羽上皇と戦った承久の乱(1221年)以来、久々に訪れた所領拡大のビッグチャンス。当然、博多でも敵陣に突っ込んでいく。
対する元・高麗連合軍は組織ごとに動く集団戦法だったので、先陣を切った御家人らが取り囲まれては討ちとられるといったシーンが相次いだ。
さらに突然、けたたましい音とともに破裂する物体に終始、悩まされる。未知の兵器「鉄炮(てっぽう)」である。
直径20センチ、重量4キロの球体が破裂してその破片が約50平方メートルに飛び散る仕組みで、殺傷能力は低かったようだが、強烈な爆音と爆風は勇猛な御家人らも腰が抜けるほどだった。
コンパクトな短弓も驚異で、射程圏は約30メートルと日本の長弓に比べて6割程度だったが、その分、連射が効き、矢の先に毒が塗っていたために殺傷能力は高かった。
日本側の視点で当時の戦いの様子を描いた「蒙古襲来絵詞(えことば)」では、御家人らに目がけて投げられた鉄炮が爆発し、短弓の矢が人だけでなく馬にも向けられていた様子がうかがえる。
それでも立ち向かっていったため「勇敢にして、死をみることを畏(おそ)れず」などとする元側の記述もみられる。