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大坂城は三方を川や湿地帯で囲まれ、南側だけが台地続きで唯一の弱点とされていた。そこを防衛する役割を担ったのが真田丸だ。櫓や堀、三重の柵を備えた堅固な要塞(ようさい)で、城郭に詳しい滋賀県立大の中井均教授は、数で不利な状況でも攻守に効力を発揮する合理的な構造だったと説明する。
当時の兵にとって合戦は「活躍次第で家禄がはね上がり、戦死しても戦功が認められれば子孫の代まで家の繁栄が約束される。目の前にある一攫千金のチャンス」(中井教授)だ。
幸村軍はこうした兵の心理を利用し、野次を飛ばして挑発。吸い込まれるように堀になだれ込む徳川方の兵に銃弾と矢、落石を浴びせた。堀底は倒れた兵で埋まったという。
真田丸に敵兵を誘い込むことが幸村の仕掛けた最大の〝わな〟だったのかもしれない。奈良大の千田嘉博学長(城郭考古学)によると、真田丸は大坂城から完全に孤立した要塞だったことが判明したのだ。
豊臣期の上町台地の地形を復元した大阪歴史博物館の研究成果によると、真田丸があった場所は大坂城との間に深い谷があり、誤りと考えられていた江戸初期の実測図と一致。城からの援軍が見込めなかった
千田学長は「まさに背水の陣。幸村は守るだけでは勝てないと考え、自ら『おとり』になって相手をおびき寄せた。徳川方に血祭りに上げられるリスクを負った作戦だったが、見事に勝ち切った」と語る。
徳川方は大坂城どころか、真田丸にすら一兵も侵入できなかった。
真田家と徳川家の因縁
真田家と徳川家は天正11(1583)年以来、激しく対立した。この年、幸村の父、昌幸は、信州上田城を拠点とする真田領の一部を北条氏に引き渡すよう家康から命じられたが、拒絶。上杉景勝と手を結ぶ。
激怒した家康は天正13(1585)年、7千の兵で上田城を攻めたが、真田方は奇策を駆使して2千の兵で打ち破った(第一次上田合戦)。幸村はこのとき18歳の若武者だった。
天下人、豊臣秀吉の死没2年後、慶長5(1600)年に家康は東国の大名に景勝討伐を命じた。一方、豊臣側からは家康を討つべしとの書状が届き、昌幸と幸村はこれに応じて西軍に、幸村の兄、信幸は徳川方の東軍につくことを決めた。
同年9月、家康の息子、秀忠は関ケ原の戦いに向かう途上で上田城を攻めた(第二次上田合戦)。徳川方3万8千に対し真田方は2500。兵数の差は歴然だったが、城を落とせないまま時間だけ取られた秀忠軍は、関ケ原の主戦場に間に合わず、家康の逆鱗に触れる。
関ケ原で敗軍側にくみした昌幸と幸村は、信幸の取りなしで死罪こそ免れたものの、九度山での隠棲を余儀なくされた。