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時代を見通す日本の基礎情報

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「井伊の赤牛」井伊直孝 豊臣家に引導渡した〝徳川最強〟の「赤備え

 井伊直孝が使ったとされる「赤備え」の甲冑。大きな角が特徴で、滋賀県彦根市のゆるキャラ「ひこにゃん」のモデルになった(彦根城博物館所蔵)

 朱塗りの武具で統一した「赤備え」は常勝を誇った甲斐・武田氏の軍団をルーツとする。豊臣方と徳川方が激突した400年前の大坂の陣でも精強部隊の代名詞となった。豊臣方は知将、真田信繁(幸村)の真田隊、そして徳川方にも〝徳川最強〟とうたわれた井伊直孝率いる井伊隊がいた。野戦の名手として鳴り響いた家康が認めた「井伊の赤牛」。野戦となった夏の陣で真価を発揮した直孝の戦いぶりとは-。(川西健士郎)

 「井伊の赤備え」のルーツは、天正10(1582)年の武田氏滅亡にさかのぼる。このとき、武田旧臣を徳川に組み入れる交渉をしたのが直孝の父、直政だった。家康は武田旧臣を直政に付け、武田隊の兵法が継承された。
「徳川四天王」の一人に数えられた直政が慶長5(1600)年に起きた関ケ原の戦いの2年後に他界すると、直孝の兄、直継が家督を継ぐ。しかし家康は慶長19年の大坂冬の陣に際して、病身の直継に代わって直政に似て剛直な直孝を井伊隊の大将に指名した。

 同12月。井伊隊は豊臣方の真田幸村が大坂城南に築いた出城「真田丸」に攻め入って失敗、大きな損害を被った。ところが戦いぶりを見た家康は「若い者は少々粗忽(そこつ)でもよい」と直孝をほめたと伝えられる。

 翌20年の夏の陣。井伊隊は、外様大名で最も家康の信頼が厚かった藤堂高虎隊とともに先鋒(せんぽう)を務めた。5月6日、屈指の激戦として知られる八尾・若江の戦いで豊臣方の木村重成隊と激突。高虎は長宗我部盛親(ちょうそがべもりちか)隊と戦った。

 八尾市立歴史民俗資料館の小谷利明館長は「直孝と高虎は戦いに至る過程が対照的だった」と指摘する。

 前日5日の晩、生駒山地中腹の八尾市楽音寺周辺に陣取った直孝は村の民家を壊して兵を野営させた。すぐ南側で陣取った高虎は民家に兵を泊まらせた。


徳川方の軍議で両隊は約8キロ南方の道明寺に向かうことになっていた。そこが決戦の場になると予測されていたからだ。ところが6日未明、大坂城を出た豊臣方の軍勢のうち、南東方向の道明寺に向かう後藤又兵衛隊などとは別に、長宗我部隊と木村隊は東進を始めた。

 東進は想定外だったが、忍びの情報から奇襲攻撃の動きを察知した直孝は、家康の軍令を守らず、迫りつつある木村隊と戦う決断を即座に下す。一方、長宗我部隊の来襲を知った高虎は軍令変更の命令を受ける必要があると考えて逡巡し、攻撃が遅れた。

 藤堂隊は長宗我部隊に大敗。だが、井伊隊は木村隊を破り、その勢いで長宗我部隊も退散させた。冬の陣の雪辱を果たし、家康の期待に応えたのだ。

 「東進を見通していたかのように臨戦態勢を敷いて野営し、奇襲に完璧(かんぺき)に対応した直孝の判断力は際立っている」と小谷氏は語る。

 同8日、直孝は秀頼と母の淀殿が逃げ込んだ大坂城の山里曲輪を包囲。「秀頼母子を生かし置いては終(つい)に後の禍(わざわい)を遺すものなり」(『徳川実紀』)と一斉射撃を浴びせて自害に追い込んだ。この武功で井伊家の5万石加増とともに官位昇格を得て、島津家の薩藩旧記に「日本一の大手柄」とたたえられた。

幕政中核担った政治家

 彦根藩主・井伊家といえば、徳川家康を支えた「徳川四天王」の直政、開国の決断を下した幕末の大老、直弼(なおすけ)が有名だ。知名度では劣る直孝も剛毅な人柄が伝えられる一方、武功を立てた大坂夏の陣の後、40年以上にわたって幕府や彦根藩の政治を取り仕切った実務家の顔を併せ持つ。井伊家18代当主で滋賀県彦根市文化財課職員の直岳さん(45)は「目配りの行き届いた人物という印象が強い」と語る。


直岳さんは三重県桑名市出身。京都大大学院で日本史を専攻し、『新修彦根市史』の編纂(へんさん)のため彦根市の市史編纂室で勤務するまで井伊家とは無縁だった。職場結婚の相手が井伊家の長女で男子の兄弟がいなかったことから、家督を継ぐことになった。

 「井伊家には今に受け継がれる家訓のようなものはない。ただ、彦根藩の礎を築いた直孝にはいくつかの逸話が伝わっている」

 少年時代に屋敷に飛び込んだ盗賊を撃退したという言い伝え。独眼竜で知られる伊達政宗が関ケ原の戦いの際に家康から拝領した「百万石のお墨付き」を取り上げ、新たな火種になるからと焼いたという逸話も残る。

 ネコが寺の門前で手招きをするようなしぐさをしたので寺に立ち寄ると雷雨になり、ネコに感謝して雨宿りをした寺に寄進した-という言い伝えは、全国的な人気を誇る彦根市のゆるキャラ「ひこにゃん」誕生のモチーフになった。

 こうした逸話からは、夏の陣で武功を立てた武人らしく豪胆で実直な人柄が伝わる。ただ、直岳さんが着目するのは、事実上の初代大老として幕政の中核を担った直孝の「政治家」としての側面だ。

 「直孝が江戸から藩に送った指示書やその写しが200通以上も残っている。内容はキリシタンの取り締まりから藩の人事まで多岐にわたる」

 直孝の活躍によって15万石から30万石に加増された彦根藩では、大きな農民一揆が起きなかった。「藩の安定と指示書の因果関係は今後の研究課題だが、直孝は幕政を大局から判断する役割を担いながら、一方で藩の現実もよく見ていた」と評価するのだ。

 「着眼大局、着手小局」の故事を想起させる政治姿勢は、徳川方を勝利に導いた夏の陣での戦いぶりに相通じる。

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 井伊直孝が使ったとされる「赤備え」の甲冑。大きな角が特徴で、滋賀県彦根市のゆるキャラ「ひこにゃん」のモデルになった(彦根城博物館所蔵)

 朱塗りの武具で統一した「赤備え」は常勝を誇った甲斐・武田氏の軍団をルーツとする。豊臣方と徳川方が激突した400年前の大坂の陣でも精強部隊の代名詞となった。豊臣方は知将、真田信繁(幸村)の真田隊、そして徳川方にも〝徳川最強〟とうたわれた井伊直孝率いる井伊隊がいた。野戦の名手として鳴り響いた家康が認めた「井伊の赤牛」。野戦となった夏の陣で真価を発揮した直孝の戦いぶりとは-。(川西健士郎)

 「井伊の赤備え」のルーツは、天正10(1582)年の武田氏滅亡にさかのぼる。このとき、武田旧臣を徳川に組み入れる交渉をしたのが直孝の父、直政だった。家康は武田旧臣を直政に付け、武田隊の兵法が継承された。
「徳川四天王」の一人に数えられた直政が慶長5(1600)年に起きた関ケ原の戦いの2年後に他界すると、直孝の兄、直継が家督を継ぐ。しかし家康は慶長19年の大坂冬の陣に際して、病身の直継に代わって直政に似て剛直な直孝を井伊隊の大将に指名した。

 同12月。井伊隊は豊臣方の真田幸村が大坂城南に築いた出城「真田丸」に攻め入って失敗、大きな損害を被った。ところが戦いぶりを見た家康は「若い者は少々粗忽(そこつ)でもよい」と直孝をほめたと伝えられる。

 翌20年の夏の陣。井伊隊は、外様大名で最も家康の信頼が厚かった藤堂高虎隊とともに先鋒(せんぽう)を務めた。5月6日、屈指の激戦として知られる八尾・若江の戦いで豊臣方の木村重成隊と激突。高虎は長宗我部盛親(ちょうそがべもりちか)隊と戦った。

 八尾市立歴史民俗資料館の小谷利明館長は「直孝と高虎は戦いに至る過程が対照的だった」と指摘する。

 前日5日の晩、生駒山地中腹の八尾市楽音寺周辺に陣取った直孝は村の民家を壊して兵を野営させた。すぐ南側で陣取った高虎は民家に兵を泊まらせた。


徳川方の軍議で両隊は約8キロ南方の道明寺に向かうことになっていた。そこが決戦の場になると予測されていたからだ。ところが6日未明、大坂城を出た豊臣方の軍勢のうち、南東方向の道明寺に向かう後藤又兵衛隊などとは別に、長宗我部隊と木村隊は東進を始めた。

 東進は想定外だったが、忍びの情報から奇襲攻撃の動きを察知した直孝は、家康の軍令を守らず、迫りつつある木村隊と戦う決断を即座に下す。一方、長宗我部隊の来襲を知った高虎は軍令変更の命令を受ける必要があると考えて逡巡し、攻撃が遅れた。

 藤堂隊は長宗我部隊に大敗。だが、井伊隊は木村隊を破り、その勢いで長宗我部隊も退散させた。冬の陣の雪辱を果たし、家康の期待に応えたのだ。

 「東進を見通していたかのように臨戦態勢を敷いて野営し、奇襲に完璧(かんぺき)に対応した直孝の判断力は際立っている」と小谷氏は語る。

 同8日、直孝は秀頼と母の淀殿が逃げ込んだ大坂城の山里曲輪を包囲。「秀頼母子を生かし置いては終(つい)に後の禍(わざわい)を遺すものなり」(『徳川実紀』)と一斉射撃を浴びせて自害に追い込んだ。この武功で井伊家の5万石加増とともに官位昇格を得て、島津家の薩藩旧記に「日本一の大手柄」とたたえられた。

幕政中核担った政治家

 彦根藩主・井伊家といえば、徳川家康を支えた「徳川四天王」の直政、開国の決断を下した幕末の大老、直弼(なおすけ)が有名だ。知名度では劣る直孝も剛毅な人柄が伝えられる一方、武功を立てた大坂夏の陣の後、40年以上にわたって幕府や彦根藩の政治を取り仕切った実務家の顔を併せ持つ。井伊家18代当主で滋賀県彦根市文化財課職員の直岳さん(45)は「目配りの行き届いた人物という印象が強い」と語る。


直岳さんは三重県桑名市出身。京都大大学院で日本史を専攻し、『新修彦根市史』の編纂(へんさん)のため彦根市の市史編纂室で勤務するまで井伊家とは無縁だった。職場結婚の相手が井伊家の長女で男子の兄弟がいなかったことから、家督を継ぐことになった。

 「井伊家には今に受け継がれる家訓のようなものはない。ただ、彦根藩の礎を築いた直孝にはいくつかの逸話が伝わっている」

 少年時代に屋敷に飛び込んだ盗賊を撃退したという言い伝え。独眼竜で知られる伊達政宗が関ケ原の戦いの際に家康から拝領した「百万石のお墨付き」を取り上げ、新たな火種になるからと焼いたという逸話も残る。

 ネコが寺の門前で手招きをするようなしぐさをしたので寺に立ち寄ると雷雨になり、ネコに感謝して雨宿りをした寺に寄進した-という言い伝えは、全国的な人気を誇る彦根市のゆるキャラ「ひこにゃん」誕生のモチーフになった。

 こうした逸話からは、夏の陣で武功を立てた武人らしく豪胆で実直な人柄が伝わる。ただ、直岳さんが着目するのは、事実上の初代大老として幕政の中核を担った直孝の「政治家」としての側面だ。

 「直孝が江戸から藩に送った指示書やその写しが200通以上も残っている。内容はキリシタンの取り締まりから藩の人事まで多岐にわたる」

 直孝の活躍によって15万石から30万石に加増された彦根藩では、大きな農民一揆が起きなかった。「藩の安定と指示書の因果関係は今後の研究課題だが、直孝は幕政を大局から判断する役割を担いながら、一方で藩の現実もよく見ていた」と評価するのだ。

 「着眼大局、着手小局」の故事を想起させる政治姿勢は、徳川方を勝利に導いた夏の陣での戦いぶりに相通じる。

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