忍者ブログ

時代を見通す日本の基礎情報

日本を取り巻くアジア情勢の変化 世界の情報を辛口で伝える情報部ログ 世の中はめまぐるしくかわっていきます その中で取り残されない為の情報をお伝えします Changing Asian situation surrounding Japan Tell the world information by information Department log The world is rapidly mood In order not to lag behind in its informed the <a href="https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=3BDZ68+72TSYA+4IRQ+5YJRM" rel="nofollow">なんでもまとめてお売りください!宅配買取「いーあきんど」</a> <img border="0" width="1" height="1" src="https://www19.a8.net/0.gif?a8mat=3BDZ68+72TSYA+4IRQ+5YJRM" alt="">

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


自転車事故は減少も歩行者との事故は増加ルールとマナー守ってや~!兵庫で一斉自転車取り締まり

女性に注意する生田署員ら=神戸市中央区

女性に注意する生田署員ら=神戸市中央区

自転車と歩行者の事故が増加し注目を集めるなかで、兵庫県警は7日、県内48カ所の商店街や通学路などで、自転車の一斉取り締まりを実施した。県内全体で、指導警告書などの交付が278件で、信号無視など赤切符の交付が15件だった。自転車の運転マナーに関しては地域からの相談も多く、県警交通指導課の担当者は「目に見える指導や取り締まりをすることで、ルールを知ってもらい、マナー向上につなげたい」と話している。

 この日朝、神戸市中央区の元町商店街では、生田署員ら12人がマナー違反の自転車利用者を呼び止めて指導。同商店街は歩行者専用道路で、終日自転車の走行を禁止しているが、同署によると「ルールを守らない人が多い」との苦情が絶えないという。
同商店街を歩いていた灘区の男性(70)は「高齢で、走ってくる自転車を、ぱっとよけられないので、何度も危ない目にあった」とため息。一方で、自転車走行を注意された兵庫区の男性(60)は「危険な運転をする一部の人のせいで、取り締まりが厳しくなって窮屈だ」と不満そうだった。

 県警によると、県内では昨年、自転車が関連する交通事故が7400件(前年比394件減)発生。全体としては減少しているが、歩行者との事故は175件(同6件増)と10年前から1・7倍に増加している。このうち歩道上の事故は82件と約半数を占めている。

 また、自転車利用者による信号無視や一時不停止、禁止区域への乗り入れなどによる摘発件数は昨年、614件(同40件減)。県警は事故につながる可能性が高いとして、こうした「違反」の摘発に力をいれており、今年は1月末までで、すでに摘発件数は101件にのぼっている

拍手[0回]

PR

「黒い猿」…金正恩第1書記よ「それを言ったらおしまい」だ

小欄のファンから「先生、アメリカは北朝鮮と戦争しますかね」という電話が来た。どうやら朝鮮中央通信がオバマ大統領を「卑劣な黒い猿」と報じたことに、アメリカが怒り、戦争でもおこすのではないかということだった。

 この「黒い猿」報道を聞いたときは、わが耳を疑った。北朝鮮がこれまで韓国や日本などを罵(ののし)るときの「罵詈讒謗(ばりざんぼう)」や「悪口雑言」の類いには慣れていたが、これはあまりにもひどすぎる。

 曰(いわ)く「オバマを見ていると吐き気ではらわたが煮えくり返る。アフリカの原生林に生息する猿の顔そのもの。アフリカの動物園で猿たちと一緒に暮らし、観光客が投げるパンくずを食べていればいい」などとオバマ大統領を差別的な表現で批判したのである。

 小欄は、かつて、「毒舌」で知られた司会者の名前を冠した某民放テレビ局の番組に出演したことがある。この番組は司会者だけでなく、ゲストが口角泡を飛ばし、歯に衣(きぬ)を着せぬ口調で相手をやり込めることで知られていた。

 しかし、互いに言っていいことと、「それを言ったらおしまいだ」という線引きはできていた。

 北朝鮮の今回の「発言」は一国の大統領に対して、明らかに「それを言ったらおしまいだ」の一線を越えている。北朝鮮がいくらミサイルや核でアメリカを恫喝(どうかつ)しても、交渉のテーブルに着かないことに業を煮やして発した言葉かもしれないが、これは許すことができない
韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領についても、極めて下劣な表現を使って罵ったというが、およそこの国の権力者の「文化度の低さ」が読み取れる。

 北朝鮮はかつて「悪の枢軸」呼ばわりしたブッシュ大統領やケリー長官を、「オオカミ」呼ばわりしたことはあるが、今回の表現はこれとは全く次元の異なる下劣で、卑劣な行為である。

 金正恩第1書記よ、そういうおヌシは髪形や演説の方法など、「祖父の猿まね」をしているではないか。また、北朝鮮人民はおヌシのことをひそかに「白豚」と呼んでいるという。いつか動物のたたりがなければいいが…。

拍手[0回]


歴史から消された「通州事件」


惨 ! 通州事件 保安隊、デマ放送に踊り反乱す 盧溝橋事件発生から3週間後の7月29日、北平(北京)東方の通州で中国保安隊による大規模な日本人虐殺事件が発生した。 世に言う「通州事件」である。 中国に気兼ねする余り、我が国の歴史学者が口を緘(かん)し、教科書も新聞も雑誌も一行すら書こうとせぬこの世紀の大虐殺———。 恨みを飲んで殺された200数十名の同胞への鎮魂の気持ちを込めて、この事件を書き留…

通州事件というのはね、蘆溝橋事件から三週間 後の七月二十九日に、北京の近くの通州で起きた中国兵による大規模な日本人虐殺事件で、二百数十名の日本の子女達が、見るも無残に虐殺された事件だよ。






残虐目を覆う通州事件 孫・・・通州事件って何ですか。 私・・・通州事件というのはね、蘆溝橋事件から三週間 後の七月二十九日に、北京の近くの通州で起きた中国 兵による大規模な日本人虐殺事件で、二百数十名の日 本の子女達が、見るも無残に虐殺された事件だよ。 孫・・・へー、そんなことがあったんですか、そこに日 本軍は居なかったんですか。 私・・・居たことはいたんだ。しかし偶々守備隊の大部 分が別の場所…

6:54

通州事件の記録写真と南京大虐殺の捏造




通州などで日本人女性多数が中国人暴徒に強姦・虐殺された状況を­当時中国に駐在して­­いた従軍日本人記者が現地でその惨状を撮­影した写真を日本の敗戦­後­に中国共産党が入手し、それを南京­虐殺の証拠の被害写真として採用­している場合が多い。

それに加え­、­中国共産党お得意のプロパガンダ用写真として積極的に利用した。­日­本兵が­軍刀を持って虐殺するシーンなどは、軍務規律の厳し­い大日本帝国­陸軍で撮影するなどあり得ないし、司令官や士官も­そんなものを許可­するわけがない。無抵抗な一般市民を虐殺すれ­ば、占領下でも犯罪­行為を固く禁じていたので、憲兵隊にたちま­ち捕まり軍法会議にかけられる­からだ。

こ­れらは、共産中国軍­が、捕虜にした日本兵から取り上­げた制服や軍刀を中国兵が­着­用して虐殺シーンをプロパガンダ用­に作成したものだ。こ­れに­よって、中国国内外に反日を強化する­ための日本兵の残虐性イメ­ージづくり戦術に利用したものだ

拍手[0回]

通州事件というのはね、蘆溝橋事件から三週間 後の七月二十九日に、北京の近くの通州で起きた中国兵による大規模な日本人虐殺事件で、二百数十名の日本の子女達が、見るも無残に虐殺された事件だよ。






残虐 目を覆う通州事件

http://www.senyu-ren.jp/MAGO/12.HTM

残虐目を覆う通州事件 孫・・・通州事件って何ですか。 私・・・通州事件というのはね、蘆溝橋事件から三週間 後の七月二十九日に、北京の近くの通州で起きた中国 兵による大規模な日本人虐殺事件で、二百数十名の日 本の子女達が、見るも無残に虐殺された事件だよ。 孫・・・へー、そんなことがあったんですか、そこに日 本軍は居なかったんですか。 私・・・居たことはいたんだ。しかし偶々守備隊の大部 分が別の場所…

6:54

通州事件の記録写真と南京大虐殺の捏造




通州などで日本人女性多数が中国人暴徒に強姦・虐殺された状況を­当時中国に駐在して­­いた従軍日本人記者が現地でその惨状を撮­影した写真を日本の敗戦­後­に中国共産党が入手し、それを南京­虐殺の証拠の被害写真として採用­している場合が多い。

それに加え­、­中国共産党お得意のプロパガンダ用写真として積極的に利用した。­日­本兵が­軍刀を持って虐殺するシーンなどは、軍務規律の厳し­い大日本帝国­陸軍で撮影するなどあり得ないし、司令官や士官も­そんなものを許可­するわけがない。無抵抗な一般市民を虐殺すれ­ば、占領下でも犯罪­行為を固く禁じていたので、憲兵隊にたちま­ち捕まり軍法会議にかけられる­からだ。

こ­れらは、共産中国軍­が、捕虜にした日本兵から取り上­げた制服や軍刀を中国兵が­着­用して虐殺シーンをプロパガンダ用­に作成したものだ。こ­れに­よって、中国国内外に反日を強化する­ための日本兵の残虐性イメ­ージづくり戦術に利用したものだ

拍手[0回]

" dc:identifier="http://zero.indiesj.com/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%8B%E3%82%89%E6%B6%88%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%8C%E9%80%9A%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%80%8D" /> -->

消された「通州事件」

盧溝橋事件の約3週間後に起こった、おそるべき虐殺事件についてご存知でしょうか。北京の東にある通州というところで起きたこの「通州事件」は、今ではほとんど語られません。学校の教科書には全く出てきませんし、多くの歴史書や年表にも殆ど載っていません。若い人たちは、事件の名前すら知らない人が殆どでしょう。
 
 この通州事件は、昭和12年(1937)7月29日に起こった、中国人の保安隊による大規模な日本人虐殺事件です。殺されたのは、通州の日本軍守備隊、日本人居留民(多数の朝鮮人も含む)の約260名で、中国兵は、婦女子に至るまで、およそ人間とは思えないような方法で日本人を惨殺したのです。
 
 戦後の東京裁判で、弁護団は通州事件についての外務省の公式声明を証拠として提出しようとしました。しかし、ウェッブ裁判長によって、その申し出は却下されました。この事件にふれてしまうと、日中戦争は日本だけが悪いと言えなくなってしまうという判断があったからでしょう。ただ、通州事件の目撃者による口述書だけは受理されました。あまりに残虐な内容ですが、その一部を引用します。
 
 「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。某飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、婦人は14、5歳以上は全部強姦されていた。旭軒という飲食店に入ると、7、8名の女が全部裸体にされ、強姦射刺殺され、陰部にほうきを押しこんである者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある者など見るに堪えなかった。
 
 東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合わせて、それに八番線を通し、一家6名数珠つなぎにして引き回した形跡歴然たる死体が浮かんでおり、池の水は真っ赤になっていた。夜半まで生存者の収容に当たり、『日本人はいないか』と叫んで各戸ごとに調査すると、鼻に牛のごとく針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこそこのちり箱の中やら塀の陰から出てきた」
 
 どうでしょう、これが人間のやることでしょうか。中国の保安隊は、日本人居留民を通州城内に集め、城門を閉じ、逃げられないようにして、一斉に殺戮行為を開始したといいます。決して偶発的な出来事というわけではなく、明らかに事前準備と計画をともなった組織的な行為だったのです。
 
 当然ながら、この虐殺の報は現地の日本軍兵士を激昂させましたし、日本国内にも伝わって、国民の中国に対する怒りは頂点に達しました。
 
 盧溝橋事件は、純粋に軍どうしの衝突であり、それは現地で解決がはかられました。ところが、この通州事件は明らかな国際法違反であり、その殺し方はまさに鬼畜のしわざとも言えるものでした。当時の日本人の反中国感情はこの事件を抜きにして理解することはできないのです。また、この事件に触れずに日中戦争を語ることはできないと思います。

拍手[0回]


Tungchow Mutiny

Japanese soldiers on walls of Tongzhou

Japanese survivors of the Tungchow Mutiny



The Tungchow Mutiny (Japanese: 通州事件 Hepburn: Tsushu jiken?, Chinese: ; pinyin: Tōngzhōu Shìjiàn), sometimes referred to as the Tongzhou Incident, was the massacre of Japanese civilians and troops by East Hopei Army in Tongzhou, China on 29 July 1937 shortly after the Marco Polo Bridge Incident that marked the official beginning of the Second Sino-Japanese War. 223 of the 385 Japanese denizens were killed.

In early 1937, Tongzhou was capital of the East Hopei Government, a Japanese puppet state controlling the strategic eastern district of Beijing. In July, a detachment of approximately 800 troops of the Chinese 29th Army, under the command of General Sung Che-yuan and loyal to the Kuomintang government, camped outside the walls of Tongzhou. Refusing to leave despite the strong protests of the Japanese garrison commander,[1] the Japanese did not know that General Sung had reached an agreement with East Hopei leader Yin Ju-keng, who hoped to use Sung's Kuomintang troops to rid himself of his Japanese overlords.

On 27 July, the Japanese commander demanded that the Kuomintang soldiers disarm. When they refused, fighting erupted the following day, and the outnumbered and outgunned Chinese troops were trapped between the Japanese and the city wall. However, the Kuomintang Chinese troops' unwillingness to surrender in what was essentially a suicide mission strongly affected the Japanese-trained 1st and 2nd Corps of the East Hopei Army who were attached to the Japanese army. When East Hopei Army units refused to press the attack, Japanese troops bombed their barracks on the evening of 28 July. On midnight of 28 July, some 5000 troops of the 1st and 2nd Corps of the East Hopei Army mutinied, turning against the Japanese garrison.[1]

In addition to Japanese military personnel, some 260 civilians living in Tongzhou in accordance with the Boxer Protocol of 1901 were killed in the uprising (predominantly Japanese including the police force and also some ethnic Koreans). Only around 60 Japanese civilians survived and they provided both journalists and later historians with firsthand witness accounts. The Chinese set fire and destroyed much of the city.

Anti-Chinese sentiments were further intensified in Japan. The popular Japanese slogan in those days was "To punish China the outrageous" (Chinese: 暴戻支那膺懲; pinyin: Bōrei Shina Yōchō or its shorter version Chinese: 暴支膺懲; pinyin: Bōshi Yōchō). The Japanese military adventurists stationed in China used this incident to justify further military operations under the pretext of protecting Japanese lives and properties in and around Beijing. After World War II the Japanese defence team at the International Military Tribunal for the Far East (the Tokyo War Crimes Tribunal) submitted the official statement made in 1937 by the Ministry of Foreign Affairs of Japan as the inevitable cause of the Sino-Japanese conflicts, but presiding judge Sir William Webb KBE rejected it as evidence.

References[edit]

  • Hsu Long-hsuen and Chang Ming-kai, History of The Sino-Japanese War (1937-1945) 2nd Ed., 1971. Translated by Wen Ha-hsiung, Chung Wu Publishing; 33, 140th Lane, Tung-hwa Street, Taipei, Taiwan Republic of China. Pg.177-180, Map 2
  • Jowett, Philip (2005). Rays of the Rising Sun, Volume 1: Japan's Asian Allies 1931-45, China and Manchukuo. Helion and Company Ltd. ISBN 1-874622-21-3. 

Notes[edit]

  1. ^ Jump up to: a b Jowett, Rays of the Rising Sun, Volume 1: Japan's Asian Allies 1931-45, China and Manchukuo, page 48

Coordinates: 39°48′N 116°48′E / 39.800°N 116.800°E / 39.800; 116.800

拍手[0回]

拍手[0回]

" dc:identifier="http://zero.indiesj.com/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/tungchow%20mutiny" /> -->