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安全保障問題で何か起これば、メディアに緊急出演を求められる。3年前に退官してからも、自衛官時代さながらの多忙な日々を送っている。現在の本職は、金沢工業大学虎ノ門大学院教授で、リーダーシップ論を教えている。最近、『リーダーシップは誰でも身に付けられる』(アルファポリス)を上梓した。
「どんな人でも、考え方を変えるだけでリーダーになれるんです」
そのノウハウが惜しみなく盛り込まれ、組織で責任ある立場に就いたものの「自分には向いていない」と思い込んでしまっている人たちには勇気づけられる指南書だ。とりわけ、伊藤氏の潜水艦乗りとしての経験や艦長時代のエピソードから、多くを読み解ける。
「艦艇の指揮官が発すべき言葉は『了解』と『待て』だけです」
私(桜林)が海上自衛隊を知ったばかりの十数年前、すでに伊藤氏の名前は伝説になっていた。
艦長として参加した1998年のリムパック(環太平洋合同演習)で、米軍の敵艦役として木っ端みじんにされるはずだった海自潜水艦が、たった1艦で強襲揚陸艦部隊全艦など15隻を撃沈してしまったのだ。
その後、日本の「イトウ」の名は、米海軍にとって苦い経験の代名詞のようになったと聞く。ここまでの結果が出せたのは、良きフォロワー(部下)あってのことだったと分かった。細部は著書に詳しい。
9・11米中枢同時テロの際は、在米国防衛駐在官として前例のない事態で奮闘し、広報室長時代は『亡国のイージス』映画化の立役者となる。こうした実績から「よほど志の強い生まれながらのエリートだろう」と思い込んでいたが、防衛大学校に入った当時はまったく別人だったようだ。
「友人に誘われて防大を受験したんですが、自衛官になるとは思っていませんでした」
付き合いで受験した防大に、自分だけ合格した。日教組活動が盛んだった高校からは「絶対に自衛官になるな」と言われて送り出された。そのため、防大生になったとはいえ、自衛隊を強く意識することもなくアメフト部の練習に没頭する日々だった。しかし、ある出来事が、その後の人生観を変えることになる。
「初めての挫折、人生のどん底にたたき落とされた気分でした」
4年の夏合宿で負傷し、さらに階段から転落した。ケガには慣れていたので、すぐに治ると思ったが、治癒困難な「骨化性筋炎」(こっかせいきんえん=重度の損傷などが原因で、本来骨がない筋肉の中に骨組織ができる疾患)と診断され、松葉づえ生活になってしまったのだ。
それまで、アメフトの雑誌にも取り上げられるなど絶好調に見えた学生生活が、一気に真っ暗になった。そして、防大初の「卒業延期」となる。海上要員に決まっていたが、歩けないので幹部候補生学校(広島県江田島市)に進むことはできなかった。同級生が江田島で訓練に励むなか、大分県の自衛隊別府病院に入院し、リハビリの日々が始まった。
「治る見込みもなく、『任官できなくても仕方がない』という心境でした。そもそも強い意志があったわけではなかったので」
そんな伊藤氏を待っていたのは、同じようにリハビリのため入院していた陸上自衛官たちだった。
死亡者も出した戦車事故で一命を取りとめた人、無反動砲で片腕をなくした人…。階級は陸曹や陸士、年齢は上でも幹部である伊藤氏にとっては、部下になる人たちばかりだった。そこに来た理由はさまざまだったが、自分よりも重症の人たちが懸命に生きる姿がそこにあった。
「とにかく明るい人ばかり。でも、みんな本当に真剣なんです」
病院には、作業中の土砂崩落事故で下半身不随になった山本行文(ゆきふみ)氏もいた。彼はのちに、日本人として初めて車いすマラソンでパラリンピックに出場するなど、車いすアスリートの先駆者となる。
山本氏は「下半身が使えないなら、上半身を鍛えればよい」と、伊藤氏に教えてくれたという。「不可能なことは何もない」ということを目の当たりにする毎日だった。目の前のことに全力で取り組んでいる人たちを見て、心は一変した。
「逃げてはダメだ。どんなことにも向かい合おう」
そして、ある日、右大腿筋を筋肉ごと固めていた問題の化骨が突然砕けたのだ。奇跡だった。
1年遅れで始まった自衛官人生、その後は経歴の通りだ。海上自衛隊呉地方総監まで上りつめたが、あの挫折とあの出会いがなければ、今の自分はないと常に原点を忘れなかった。
「挫折してもいい。取り返せばいいんだから!」
いつも口にするその言葉に重みがある理由が、やっと分かった。 (ペン・桜林美佐 カメラ・佐藤徳昭)