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日本を取り巻くアジア情勢の変化 世界の情報を辛口で伝える情報部ログ 世の中はめまぐるしくかわっていきます その中で取り残されない為の情報をお伝えします Changing Asian situation surrounding Japan Tell the world information by information Department log The world is rapidly mood In order not to lag behind in its informed the <a href="https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=3BDZ68+72TSYA+4IRQ+5YJRM" rel="nofollow">なんでもまとめてお売りください!宅配買取「いーあきんど」</a> <img border="0" width="1" height="1" src="https://www19.a8.net/0.gif?a8mat=3BDZ68+72TSYA+4IRQ+5YJRM" alt="">
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「理不尽な形で刑事手続きに入り、出国禁止になって2カ月以上になります。その間に私の気持ちも整理され、腹も据わってきました。在宅起訴と聞かされた時も、ならば粛々と闘っていくだけだという思いでした」
小誌の直撃取材に対して、産経新聞の加藤達也前ソウル支局長(48)はこう語った。その真っ直ぐな視線は、国家権力による不当な圧力には屈しないという決意を感じさせた――。
〈ソウル中央地検、産経前ソウル支局長を在宅起訴〉
10月8日、国内外に衝撃が走った。加藤氏が8月3日に産経のサイトに掲載した朴槿恵大統領に関するコラムについて、韓国検察は情報通信網法における名誉毀損と判断し、在宅起訴して裁判にかけるというのだ。
国内では菅義偉官房長官が「民主国家ではあるまじき行為」と即座に反発。米・国務省のサキ報道官も「アメリカは表現や言論の自由を支持している」と表明するなど、今や国際的な関心事となった。
いったい韓国で何が起きようとしているのか。小誌記者はソウルへ飛んだ。
市内中心部、産経ソウル支局が入る京郷新聞社ビルは銀杏並木通り沿いにある。周辺は、普段ならカフェで寛ぐ若者らで賑わっている。しかし10月10日、記者が訪れると様子が一変していた。
「産経新聞は謝罪しろ!」
「安倍の手先め!」
ビル周辺に大韓民国オボイ連合という右翼団体のメンバー約50人が集結。加藤氏の顔写真入りの垂れ幕を持って糾弾し、罵声を浴びせ続けていた。ビルの入り口は機動隊や警察官によって封鎖され、右翼団体と睨み合いが続く。
オボイ連合のオボイとは「両親」を意味し、メンバーの大半は高齢者。HP上で「安倍晋三は即座に切腹しろ!」などと掲げる急進的反日団体だ。演説を続けていたリーダー格の男が、加藤氏の顔写真を張り付けた人形に火を放とうとした瞬間、警官隊が突撃。鈍い衝撃音が響き、警官と老人の間で怒声と血飛沫(ちしぶき)が飛び交う乱闘が始まった。
その蛮行は、加藤氏が“反日活動の生贄”にされていることを物語っていた。
その後、小誌は某所で渦中の人となった加藤氏をキャッチ、直撃取材を試みたところ、戸惑いながらも口を開いてくれたのが冒頭のシーンである。加藤氏は「起訴の一報を聞いてすぐさま飛んできた」といって質問を重ねる記者に、淡々と言葉を継いだ。
「韓国検察のやり方は理不尽そのものでした。在宅起訴は事前に弁護士に通知するとしていたのに、午後7時にメディアで発表されました。検察は『時間がなかったから』と後で弁明していましたが、1人の人間を刑事訴追しようという時に、なぜ慎重に手順を踏まないのか。この奇襲ともいえる在宅起訴は、韓国検察が一貫してとってきた態度の総仕上げでした。私に対して心理的な圧迫をかけ、抑え付けて潰しにかかり、惨めに謝罪をさせようという態度です。朴政権のメンツを取り戻すことに躍起となった結論ありきの捜査だったと思います」
加藤氏は91年に産経新聞に入社。社会部畑を歩み、警視庁公安担当や拉致問題担当を歴任。2010年にソウル特派員として赴任し、翌年にソウル支局長に昇格した。12年には、安倍晋三首相が朴大統領に特使を送るというスクープ記事を書く等、韓国に精通し、韓国語も自在に操る敏腕記者として知られていた。
なぜ日本語で書かれた日本人向けの記事で、韓国初となる外国人記者起訴に至ったのか。改めて経緯を振り返ろう。
問題となった記事は8月3日、MSN産経ニュースのサイトに掲載された「【追跡~ソウル発】朴槿恵大統領が旅客船沈没当日、行方不明に…誰と会っていた?」だった。
コラムはセウォル号沈没という大惨事の中、国会で秘書室長が朴大統領の所在について答弁できなかった事実を指摘。朝鮮日報の「大統領をめぐるウワサ」という記事を紹介、独自の取材と論評を加えたものだった。
「この記事を、『News Pro』というネットメディアが産経に無断で翻訳、論評を加えてサイトに掲載したことで、韓国でも話題となった」(現地特派員)
8月5日に韓国大統領府が抗議の意思を公表、呼応するかのように6日以降、「自由青年連合」ら複数の市民団体が加藤氏を刑事告発。韓国の法律では名誉毀損については当事者だけではなく、第三者からの刑事告発も可能だ。7日に大統領府が「産経に民事、刑事上の責任を問う」と表明すると、8日にはソウル中央地検が加藤氏に出頭を要請した。民主主義は建前だけ、大統領府、検察、反日市民団体らが一斉に加藤氏に襲いかかった格好だ。
「8月7日に出国禁止措置が取られているのですが、これも、私には知らされませんでした。9日に日本人記者から電話がきて『韓国のTVが出国禁止を報じています』と言われて驚いた。弁護士によると、捜査に重大な支障がある場合は本人に通告しなくてもいいらしい。検察は初めから『お前は犯罪者だ』と決めてかかっていたのです」
8月18日、加藤氏は地検に最初の出頭をする。多くの韓国メディアが加藤氏の顔を知らなかったため、庁舎前は右往左往する報道陣でごった返した。混乱の中、加藤氏は紺のスーツに身を包み、黄色のネクタイを締めて入庁していった。
「あの時は完全に戦闘モードでした。この程度のことで刑事事件として私を調べるという検察の捜査に、最初から無理があると考えていた。同時に、犯罪の意図の存在、動機の形成、立証をどう組み立てようとしているのか、取調べに非常に関心があった」
尋問は4階の検事室で記事の翻訳を確認した後に、10階の録音録画取調室で行われた。担当はコ・ピルヒョン検事。終始、丁寧な言葉を使いながら、コラムで使用した「言葉」についての質問を繰り返してきたという。
「検事はまず『行方不明』という言葉を使ったと指摘した。『韓国では行方不明は犯罪者が逃亡して所在がわからない、あるいは犯罪被害者が深刻な事態に遭って連絡がつかない、という時にのみ使う』というのです。日本では短時間でも姿が見えないと『あれ、加藤が行方不明だな』と、軽い意味でも使うことがあると答えました」
検事はさらにこう畳み掛けてきたという。
「朝鮮日報の記事は、大統領の行方を問題視していないじゃないか。国会議事録に掲載されている対話からも、行方不明とは断定できないはずだ。加藤被疑者の記事は、行方不明をことさら強調している!」
加藤氏はコラムで、国会において青瓦台(大統領府)秘書室長がセウォル号事故の際に大統領の所在を「位置に関しては、私は分かりません」と答えたことを紹介し、「韓国の権力中枢とはかくも不透明なのか」と論評していた。
「検事は2つのことを言っていると思いました。まず朝鮮日報と産経新聞は違う。そして、加藤被疑者は悪意を持って記事を書いている、と。それを調書に残すことによって、公判でも加藤被疑者だけが悪質で起訴されるべき理由があるという流れを作ろうと思ったのでしょう」
検察が「国策捜査だ」と批判を受けているのは、加藤氏のコラムを捜査対象としたにもかかわらず、同様の内容を書いた朝鮮日報はお咎めなしとしたからだ。
“ウワサ”について、朝鮮日報はこう書いている。
〈世間では『大統領はあの日、ある場所で秘線(秘密に接触する人物)と一緒にいた』というウワサが流れた。(略)ウワサ話に登場していたチョン・ユンフェ氏が離婚していたことまで判明し、事態はさらにドラマチックになった。チョン氏は財産分与や慰謝料の請求をしないという条件で、妻に対して『秘密の維持』を求めた〉(朝鮮日報コラムの要旨)
昔、朴正熙元大統領が信頼を寄せていた側近に崔太敏(チェ・テミン)(故人)という牧師がいた。当時20代だった朴槿恵氏と崔氏は男女関係にあったとの説もあり、事実、2年前の大統領選の際には、野党側が朴氏と崔氏の間には隠し子がいるのではないかとまで追及したことがあった。チョン氏はその崔氏の娘婿で、朴氏が大統領になる前に、7年間秘書室長を務めていた人物だ。
「チョン・ユンフェや崔牧師の話が、朴大統領にとって触れられたくないタブーだったのは間違いない。韓国世論は公職者の“姦通”に厳しく、妻帯者だったチョン氏との関係は日本以上に問題視される」(韓国人ジャーナリスト)
前述の朝鮮日報コラムを引用するにあたって、加藤氏は次のように補足し、記述している。
〈ウワサとはなにか。
証券街の関係筋によれば、それは朴大統領と男性の関係に関するものだ〉
〈おそらく“大統領とオトコ”の話は、韓国社会のすみの方で、あちらこちらで持ちきりとなっていただろう。(略)だが、「朴氏との緊密な関係がウワサになったのは、チョン氏ではなく、その岳父のチェ牧師の方だ」と明かす政界筋もいて、話は単純ではない〉
朝鮮日報が及び腰に提示しようとした構図を、加藤氏は「緊密な関係」などの言で補足したに過ぎず、男女関係を断定するのを避ける配慮も見て取れる。両記事とも朴政権を取り巻く概況として、そうしたウワサが囁かれている事実を紹介しているだけだ。だが、加藤氏だけが刑事告発された。
朝鮮日報のコラムを執筆したチェ・ボシク記者は、こんな声明を発表した。
〈極右紙である産経新聞と関連づけられ、私の立場はより悪いものになりました。(略)私のコラムでは産経新聞の記事に出たように『男女関係』という単語は用いられておらず、特定もしていません。低質と煽情性は職業人としての私のスタイルではない。私のコラムと一部の素材が似ているとしても主旨が同じだといえるのか(略)これについては検察の判断に委ねます〉
時の権力が「報道の自由」に介入しているというのに反日世論を恐れ、権力におもねっている。韓国一の歴史と、230万部というナンバーワンの部数を誇る大手紙記者の声明としては余りにお粗末だろう。
8月20日、加藤氏は2度目の出頭をする。この時は午前11時から午後9時過ぎまで、10時間以上もの尋問を受けた。
「このときも『混迷』『不穏』『レームダック』の言葉の意味を聞いてきました。検事は、私の悪意を証明することに必死でした。例えば『韓国ではレームダックは、政権後退期に政治に一貫性がない状態をいう』と。日本ではもっと広義に使います、と答えました。検事は言葉の解釈を自分たちのストーリーに強引に当てはめていくことによって、これは悪意のある言葉で、それを繋ぐことによって悪意のある記事を書いたことを証明したかったのでしょう」
大統領という公人中の公人に対し、批判やチェックに努めるのは、民主主義国家においてメディアが果たすべき役割の一つだ。
「産経が韓国に厳しいスタンスを取っていると見られていることは確かです。私自身も韓国政府の外交姿勢、日本に対する対応に問題を感じれば、率直に指摘してきました。そこには新聞記者としての問題意識がある。取材をし、資料を取り寄せ、そこで何があったか、認識を固めていき記事を書く。世界中のジャーナリストが同じ作業をしていると思います。その行為にそもそも“悪意”は入り込みようもない。
朴政権の支持率は、かつては6割を超えていたのに、当時は4割台に低迷していた。セウォル号事故の対応が不十分だと批判され、その中でウワサが生じ、相当根深く広がり始めた。これは一種の社会現象です。そういう文脈で書いた記事だと説明をしましたが、検事に聞いている様子はなかったですね」
問題なのは10月2日、3回目の尋問の際に発せられた検事の次のような言葉だ。
「セウォル号事故当日の、大統領の所在はタブーです。見て下さい、韓国のメディアはどこも書いていません。あなたはなんで書いたのですか? 悪意があったからじゃないですか?」
加藤氏は驚き、呆れてしまったという。
「日本では国家指導者の動静は公開されています、と答えました。タブーに触れた者は許さない、という朴政権の意思を検事の言葉から感じました」
朴大統領は9月16日の閣議で、産経記事に言及した野党議員を念頭に「大統領への冒涜的発言は度を越している。国民に対する冒涜でもあり、外交関係にも悪影響を与えかねない」と怒りを見せている。こうした言動が検察の判断に無関係なわけはあるまい。
名誉毀損罪は、7年以下の懲役か5000万ウォン(約500万円)以下の罰金が科せられる。被害者の朴大統領が「処罰を望まない」と主張しない限り、起訴が取り下げられることはない。
今回の起訴に、韓国内からも懸念が出始めている。野党・正義党院内代表のシム・サンジュン議員が語る。
「今回の起訴は、韓国の言論の自由に対して、国際的に疑問を持たれたという点で恥ずべき判断です。青瓦台の顔色をうかがうような検察の態度も遺憾です。起訴は見直されるべきです」
「謝罪すれば起訴猶予もありえた」との検察見解が報じられたこともあったが、加藤氏はこう主張する。
「公知の事実を可能な範囲で書き、断定もしていない。あの記事は名誉毀損ではない。謝罪を考えたことはまったくありません」
記者としての揺るぎない信念を語る加藤氏だが、顔を曇らせた瞬間もあった。それは記者が家族について尋ねたときだった。
「日本には妻と3人の子供がいます。いま長女が大学入試前で、父親として細かい相談に乗ってあげられないのが申し訳ない。父親が果たせる役割というのは多くはないけど、割と重いんですよね。また、12月には父の7回忌がある。長男の私が仕切らないといけないのですが、その頃には帰国できるのか……」
出国禁止措置の弊害は彼の家族にも及んでいる。
「妻は私の身の安全と健康を気にしてくれています。『あまりお酒を飲みすぎないでくださいね』と。あとは『いつ帰ってこられるんですか?』と聞かれます。子供達には無用な不安を与えたくないので、直接電話はしないようにしています。
妻と電話をしていると、ガリガリと雑音がしたり、突然ブツッと切れる。誰かに盗聴されているのでしょうか。妻は『まただね』といい、私も『こういう国なんだよ』と笑っていますが、正直に言えば鬱陶しいことこの上ないですよ」
韓国では捜査当局による通信傍受が容易に認められるといわれる。最近では、韓国系の携帯メッセンジャーアプリとして人気だったカカオトークやLINEについて、国民に監視不安が高まり、約160万人もの会員が脱退して欧州系アプリなどに流れる「サイバー亡命」が話題になっている。日本の特派員の間でも、当局の盗聴や尾行への警戒が今まで以上に高まっているという。
韓国日報の元記者で公共放送KBSの現理事、キム・ジュオン氏が嘆く。
「私もかつて、軍事政権時代の情報統制の事実を明らかにする記事を書いたところ逮捕されました。一審で有罪になり、最高裁で無罪判決を得るまで9年かかった。当時も盗聴や尾行は当たり前でした。朴大統領は、まるで父・朴正熙軍事政権時代に時計の針を戻そうとしているように感じます」
加藤氏は問題が起きる前、8月1日の辞令により、10月1日から古巣の社会部に編集委員として赴任、東京で働く予定だった。
「陳腐な言い方ですが、警察庁担当、拉致問題担当としての新たな業務への意欲に燃えていました。御嶽山の噴火などはまさに警察庁の担当ですし、拉致問題も注目が集まっている。自分を特別情熱的な記者とは思いませんが、記者としていい原稿を書いていこうと意欲を持っていた。それが妨げられたのがつらい」
事実上の初公判となる「公判準備期日」は11月13日に決まり、検察は10月14日、さらに3カ月の出国禁止延長を申請した。仮に最高裁まで争った場合は、平均で15カ月ほどを要するという。
理不尽な仕打ちを強行した韓国という国に、加藤氏はいま何を感じているのか。
「何人かの韓国人記者は『申し訳ない』、『加藤さんがこれで韓国に愛想を尽かしてしまうとしたら残念だ。取材現場にいて欲しい』と言ってくれた。そういう言葉に救われた思いもあります。実際、韓国メディアからも異論が出始めている。
今回の一件で、朴政権の最大の課題である“度量の狭さ”を、図らずも私が身をもって伝えることになりました。多くの韓国の方は、産経記者だから自業自得だと溜飲を下げたかもしれません。しかし、いずれ韓国国民にも言論統制の締め付けが来るでしょう。私の起訴は、韓国社会に対して自覚を促す意味があるはずです。コラムを書いてからの2カ月の間にそう考えるに至り、在宅起訴の瞬間は、淡々とした、落ち着いた気持ちでした。
裁判では『記者としてあたり前の仕事をした』と堂々と主張するつもりです」
韓国は今回の起訴で、自ら無法国家であることを証明してしまった。
「理不尽な形で刑事手続きに入り、出国禁止になって2カ月以上になります。その間に私の気持ちも整理され、腹も据わってきました。在宅起訴と聞かされた時も、ならば粛々と闘っていくだけだという思いでした」
小誌の直撃取材に対して、産経新聞の加藤達也前ソウル支局長(48)はこう語った。その真っ直ぐな視線は、国家権力による不当な圧力には屈しないという決意を感じさせた――。
〈ソウル中央地検、産経前ソウル支局長を在宅起訴〉
10月8日、国内外に衝撃が走った。加藤氏が8月3日に産経のサイトに掲載した朴槿恵大統領に関するコラムについて、韓国検察は情報通信網法における名誉毀損と判断し、在宅起訴して裁判にかけるというのだ。
国内では菅義偉官房長官が「民主国家ではあるまじき行為」と即座に反発。米・国務省のサキ報道官も「アメリカは表現や言論の自由を支持している」と表明するなど、今や国際的な関心事となった。
いったい韓国で何が起きようとしているのか。小誌記者はソウルへ飛んだ。
市内中心部、産経ソウル支局が入る京郷新聞社ビルは銀杏並木通り沿いにある。周辺は、普段ならカフェで寛ぐ若者らで賑わっている。しかし10月10日、記者が訪れると様子が一変していた。
「産経新聞は謝罪しろ!」
「安倍の手先め!」
ビル周辺に大韓民国オボイ連合という右翼団体のメンバー約50人が集結。加藤氏の顔写真入りの垂れ幕を持って糾弾し、罵声を浴びせ続けていた。ビルの入り口は機動隊や警察官によって封鎖され、右翼団体と睨み合いが続く。
オボイ連合のオボイとは「両親」を意味し、メンバーの大半は高齢者。HP上で「安倍晋三は即座に切腹しろ!」などと掲げる急進的反日団体だ。演説を続けていたリーダー格の男が、加藤氏の顔写真を張り付けた人形に火を放とうとした瞬間、警官隊が突撃。鈍い衝撃音が響き、警官と老人の間で怒声と血飛沫(ちしぶき)が飛び交う乱闘が始まった。
その蛮行は、加藤氏が“反日活動の生贄”にされていることを物語っていた。
その後、小誌は某所で渦中の人となった加藤氏をキャッチ、直撃取材を試みたところ、戸惑いながらも口を開いてくれたのが冒頭のシーンである。加藤氏は「起訴の一報を聞いてすぐさま飛んできた」といって質問を重ねる記者に、淡々と言葉を継いだ。
「韓国検察のやり方は理不尽そのものでした。在宅起訴は事前に弁護士に通知するとしていたのに、午後7時にメディアで発表されました。検察は『時間がなかったから』と後で弁明していましたが、1人の人間を刑事訴追しようという時に、なぜ慎重に手順を踏まないのか。この奇襲ともいえる在宅起訴は、韓国検察が一貫してとってきた態度の総仕上げでした。私に対して心理的な圧迫をかけ、抑え付けて潰しにかかり、惨めに謝罪をさせようという態度です。朴政権のメンツを取り戻すことに躍起となった結論ありきの捜査だったと思います」
加藤氏は91年に産経新聞に入社。社会部畑を歩み、警視庁公安担当や拉致問題担当を歴任。2010年にソウル特派員として赴任し、翌年にソウル支局長に昇格した。12年には、安倍晋三首相が朴大統領に特使を送るというスクープ記事を書く等、韓国に精通し、韓国語も自在に操る敏腕記者として知られていた。
なぜ日本語で書かれた日本人向けの記事で、韓国初となる外国人記者起訴に至ったのか。改めて経緯を振り返ろう。
問題となった記事は8月3日、MSN産経ニュースのサイトに掲載された「【追跡~ソウル発】朴槿恵大統領が旅客船沈没当日、行方不明に…誰と会っていた?」だった。
コラムはセウォル号沈没という大惨事の中、国会で秘書室長が朴大統領の所在について答弁できなかった事実を指摘。朝鮮日報の「大統領をめぐるウワサ」という記事を紹介、独自の取材と論評を加えたものだった。
「この記事を、『News Pro』というネットメディアが産経に無断で翻訳、論評を加えてサイトに掲載したことで、韓国でも話題となった」(現地特派員)
8月5日に韓国大統領府が抗議の意思を公表、呼応するかのように6日以降、「自由青年連合」ら複数の市民団体が加藤氏を刑事告発。韓国の法律では名誉毀損については当事者だけではなく、第三者からの刑事告発も可能だ。7日に大統領府が「産経に民事、刑事上の責任を問う」と表明すると、8日にはソウル中央地検が加藤氏に出頭を要請した。民主主義は建前だけ、大統領府、検察、反日市民団体らが一斉に加藤氏に襲いかかった格好だ。
「8月7日に出国禁止措置が取られているのですが、これも、私には知らされませんでした。9日に日本人記者から電話がきて『韓国のTVが出国禁止を報じています』と言われて驚いた。弁護士によると、捜査に重大な支障がある場合は本人に通告しなくてもいいらしい。検察は初めから『お前は犯罪者だ』と決めてかかっていたのです」
8月18日、加藤氏は地検に最初の出頭をする。多くの韓国メディアが加藤氏の顔を知らなかったため、庁舎前は右往左往する報道陣でごった返した。混乱の中、加藤氏は紺のスーツに身を包み、黄色のネクタイを締めて入庁していった。
「あの時は完全に戦闘モードでした。この程度のことで刑事事件として私を調べるという検察の捜査に、最初から無理があると考えていた。同時に、犯罪の意図の存在、動機の形成、立証をどう組み立てようとしているのか、取調べに非常に関心があった」
尋問は4階の検事室で記事の翻訳を確認した後に、10階の録音録画取調室で行われた。担当はコ・ピルヒョン検事。終始、丁寧な言葉を使いながら、コラムで使用した「言葉」についての質問を繰り返してきたという。
「検事はまず『行方不明』という言葉を使ったと指摘した。『韓国では行方不明は犯罪者が逃亡して所在がわからない、あるいは犯罪被害者が深刻な事態に遭って連絡がつかない、という時にのみ使う』というのです。日本では短時間でも姿が見えないと『あれ、加藤が行方不明だな』と、軽い意味でも使うことがあると答えました」
検事はさらにこう畳み掛けてきたという。
「朝鮮日報の記事は、大統領の行方を問題視していないじゃないか。国会議事録に掲載されている対話からも、行方不明とは断定できないはずだ。加藤被疑者の記事は、行方不明をことさら強調している!」
加藤氏はコラムで、国会において青瓦台(大統領府)秘書室長がセウォル号事故の際に大統領の所在を「位置に関しては、私は分かりません」と答えたことを紹介し、「韓国の権力中枢とはかくも不透明なのか」と論評していた。
「検事は2つのことを言っていると思いました。まず朝鮮日報と産経新聞は違う。そして、加藤被疑者は悪意を持って記事を書いている、と。それを調書に残すことによって、公判でも加藤被疑者だけが悪質で起訴されるべき理由があるという流れを作ろうと思ったのでしょう」
検察が「国策捜査だ」と批判を受けているのは、加藤氏のコラムを捜査対象としたにもかかわらず、同様の内容を書いた朝鮮日報はお咎めなしとしたからだ。
“ウワサ”について、朝鮮日報はこう書いている。
〈世間では『大統領はあの日、ある場所で秘線(秘密に接触する人物)と一緒にいた』というウワサが流れた。(略)ウワサ話に登場していたチョン・ユンフェ氏が離婚していたことまで判明し、事態はさらにドラマチックになった。チョン氏は財産分与や慰謝料の請求をしないという条件で、妻に対して『秘密の維持』を求めた〉(朝鮮日報コラムの要旨)
昔、朴正熙元大統領が信頼を寄せていた側近に崔太敏(チェ・テミン)(故人)という牧師がいた。当時20代だった朴槿恵氏と崔氏は男女関係にあったとの説もあり、事実、2年前の大統領選の際には、野党側が朴氏と崔氏の間には隠し子がいるのではないかとまで追及したことがあった。チョン氏はその崔氏の娘婿で、朴氏が大統領になる前に、7年間秘書室長を務めていた人物だ。
「チョン・ユンフェや崔牧師の話が、朴大統領にとって触れられたくないタブーだったのは間違いない。韓国世論は公職者の“姦通”に厳しく、妻帯者だったチョン氏との関係は日本以上に問題視される」(韓国人ジャーナリスト)
前述の朝鮮日報コラムを引用するにあたって、加藤氏は次のように補足し、記述している。
〈ウワサとはなにか。
証券街の関係筋によれば、それは朴大統領と男性の関係に関するものだ〉
〈おそらく“大統領とオトコ”の話は、韓国社会のすみの方で、あちらこちらで持ちきりとなっていただろう。(略)だが、「朴氏との緊密な関係がウワサになったのは、チョン氏ではなく、その岳父のチェ牧師の方だ」と明かす政界筋もいて、話は単純ではない〉
朝鮮日報が及び腰に提示しようとした構図を、加藤氏は「緊密な関係」などの言で補足したに過ぎず、男女関係を断定するのを避ける配慮も見て取れる。両記事とも朴政権を取り巻く概況として、そうしたウワサが囁かれている事実を紹介しているだけだ。だが、加藤氏だけが刑事告発された。
朝鮮日報のコラムを執筆したチェ・ボシク記者は、こんな声明を発表した。
〈極右紙である産経新聞と関連づけられ、私の立場はより悪いものになりました。(略)私のコラムでは産経新聞の記事に出たように『男女関係』という単語は用いられておらず、特定もしていません。低質と煽情性は職業人としての私のスタイルではない。私のコラムと一部の素材が似ているとしても主旨が同じだといえるのか(略)これについては検察の判断に委ねます〉
時の権力が「報道の自由」に介入しているというのに反日世論を恐れ、権力におもねっている。韓国一の歴史と、230万部というナンバーワンの部数を誇る大手紙記者の声明としては余りにお粗末だろう。
8月20日、加藤氏は2度目の出頭をする。この時は午前11時から午後9時過ぎまで、10時間以上もの尋問を受けた。
「このときも『混迷』『不穏』『レームダック』の言葉の意味を聞いてきました。検事は、私の悪意を証明することに必死でした。例えば『韓国ではレームダックは、政権後退期に政治に一貫性がない状態をいう』と。日本ではもっと広義に使います、と答えました。検事は言葉の解釈を自分たちのストーリーに強引に当てはめていくことによって、これは悪意のある言葉で、それを繋ぐことによって悪意のある記事を書いたことを証明したかったのでしょう」
大統領という公人中の公人に対し、批判やチェックに努めるのは、民主主義国家においてメディアが果たすべき役割の一つだ。
「産経が韓国に厳しいスタンスを取っていると見られていることは確かです。私自身も韓国政府の外交姿勢、日本に対する対応に問題を感じれば、率直に指摘してきました。そこには新聞記者としての問題意識がある。取材をし、資料を取り寄せ、そこで何があったか、認識を固めていき記事を書く。世界中のジャーナリストが同じ作業をしていると思います。その行為にそもそも“悪意”は入り込みようもない。
朴政権の支持率は、かつては6割を超えていたのに、当時は4割台に低迷していた。セウォル号事故の対応が不十分だと批判され、その中でウワサが生じ、相当根深く広がり始めた。これは一種の社会現象です。そういう文脈で書いた記事だと説明をしましたが、検事に聞いている様子はなかったですね」
問題なのは10月2日、3回目の尋問の際に発せられた検事の次のような言葉だ。
「セウォル号事故当日の、大統領の所在はタブーです。見て下さい、韓国のメディアはどこも書いていません。あなたはなんで書いたのですか? 悪意があったからじゃないですか?」
加藤氏は驚き、呆れてしまったという。
「日本では国家指導者の動静は公開されています、と答えました。タブーに触れた者は許さない、という朴政権の意思を検事の言葉から感じました」
朴大統領は9月16日の閣議で、産経記事に言及した野党議員を念頭に「大統領への冒涜的発言は度を越している。国民に対する冒涜でもあり、外交関係にも悪影響を与えかねない」と怒りを見せている。こうした言動が検察の判断に無関係なわけはあるまい。
名誉毀損罪は、7年以下の懲役か5000万ウォン(約500万円)以下の罰金が科せられる。被害者の朴大統領が「処罰を望まない」と主張しない限り、起訴が取り下げられることはない。
今回の起訴に、韓国内からも懸念が出始めている。野党・正義党院内代表のシム・サンジュン議員が語る。
「今回の起訴は、韓国の言論の自由に対して、国際的に疑問を持たれたという点で恥ずべき判断です。青瓦台の顔色をうかがうような検察の態度も遺憾です。起訴は見直されるべきです」
「謝罪すれば起訴猶予もありえた」との検察見解が報じられたこともあったが、加藤氏はこう主張する。
「公知の事実を可能な範囲で書き、断定もしていない。あの記事は名誉毀損ではない。謝罪を考えたことはまったくありません」
記者としての揺るぎない信念を語る加藤氏だが、顔を曇らせた瞬間もあった。それは記者が家族について尋ねたときだった。
「日本には妻と3人の子供がいます。いま長女が大学入試前で、父親として細かい相談に乗ってあげられないのが申し訳ない。父親が果たせる役割というのは多くはないけど、割と重いんですよね。また、12月には父の7回忌がある。長男の私が仕切らないといけないのですが、その頃には帰国できるのか……」
出国禁止措置の弊害は彼の家族にも及んでいる。
「妻は私の身の安全と健康を気にしてくれています。『あまりお酒を飲みすぎないでくださいね』と。あとは『いつ帰ってこられるんですか?』と聞かれます。子供達には無用な不安を与えたくないので、直接電話はしないようにしています。
妻と電話をしていると、ガリガリと雑音がしたり、突然ブツッと切れる。誰かに盗聴されているのでしょうか。妻は『まただね』といい、私も『こういう国なんだよ』と笑っていますが、正直に言えば鬱陶しいことこの上ないですよ」
韓国では捜査当局による通信傍受が容易に認められるといわれる。最近では、韓国系の携帯メッセンジャーアプリとして人気だったカカオトークやLINEについて、国民に監視不安が高まり、約160万人もの会員が脱退して欧州系アプリなどに流れる「サイバー亡命」が話題になっている。日本の特派員の間でも、当局の盗聴や尾行への警戒が今まで以上に高まっているという。
韓国日報の元記者で公共放送KBSの現理事、キム・ジュオン氏が嘆く。
「私もかつて、軍事政権時代の情報統制の事実を明らかにする記事を書いたところ逮捕されました。一審で有罪になり、最高裁で無罪判決を得るまで9年かかった。当時も盗聴や尾行は当たり前でした。朴大統領は、まるで父・朴正熙軍事政権時代に時計の針を戻そうとしているように感じます」
加藤氏は問題が起きる前、8月1日の辞令により、10月1日から古巣の社会部に編集委員として赴任、東京で働く予定だった。
「陳腐な言い方ですが、警察庁担当、拉致問題担当としての新たな業務への意欲に燃えていました。御嶽山の噴火などはまさに警察庁の担当ですし、拉致問題も注目が集まっている。自分を特別情熱的な記者とは思いませんが、記者としていい原稿を書いていこうと意欲を持っていた。それが妨げられたのがつらい」
事実上の初公判となる「公判準備期日」は11月13日に決まり、検察は10月14日、さらに3カ月の出国禁止延長を申請した。仮に最高裁まで争った場合は、平均で15カ月ほどを要するという。
理不尽な仕打ちを強行した韓国という国に、加藤氏はいま何を感じているのか。
「何人かの韓国人記者は『申し訳ない』、『加藤さんがこれで韓国に愛想を尽かしてしまうとしたら残念だ。取材現場にいて欲しい』と言ってくれた。そういう言葉に救われた思いもあります。実際、韓国メディアからも異論が出始めている。
今回の一件で、朴政権の最大の課題である“度量の狭さ”を、図らずも私が身をもって伝えることになりました。多くの韓国の方は、産経記者だから自業自得だと溜飲を下げたかもしれません。しかし、いずれ韓国国民にも言論統制の締め付けが来るでしょう。私の起訴は、韓国社会に対して自覚を促す意味があるはずです。コラムを書いてからの2カ月の間にそう考えるに至り、在宅起訴の瞬間は、淡々とした、落ち着いた気持ちでした。
裁判では『記者としてあたり前の仕事をした』と堂々と主張するつもりです」
韓国は今回の起訴で、自ら無法国家であることを証明してしまった。
安倍晋三首相が、朴槿恵(パク・クネ)大統領率いる韓国を明確に“区別”した。12日の施政方針演説で、米国やオーストラリア、インド、中国、ロシアなどについては気持ちを込めて深く語ったが、韓国は軽く触れただけだったのだ。
安倍首相は演説で、米国については「(日本外交の)基軸は日米同盟だ」と明言し、「オーストラリア、ASEAN(東南アジア諸国連合)諸国、インド、欧州諸国など、自由や民主主義、基本的人権や法の支配といった基本的価値を共有する国々と連携する」などと決意を述べた。
中国にも「安定的な友好関係を発展させ、国際社会の期待に応える」とエールを送り、ロシアにも「経済、文化など幅広い分野で協力を深め、平和条約の締結に向けて交渉する」などと語った。
だが、韓国については「最も重要な隣国」「対話のドアは、常にオープン」などと、実にあっさりしていた。字数にすると、たった71文字。
背景には、朴大統領や韓国系団体が世界中で、日本と日本人を貶める「告げ口外交」や「反日工作」を展開していることへの“無言のメッセージ”もありそうだ
大坂城は三方を川や湿地帯で囲まれ、南側だけが台地続きで唯一の弱点とされていた。そこを防衛する役割を担ったのが真田丸だ。櫓や堀、三重の柵を備えた堅固な要塞(ようさい)で、城郭に詳しい滋賀県立大の中井均教授は、数で不利な状況でも攻守に効力を発揮する合理的な構造だったと説明する。
当時の兵にとって合戦は「活躍次第で家禄がはね上がり、戦死しても戦功が認められれば子孫の代まで家の繁栄が約束される。目の前にある一攫千金のチャンス」(中井教授)だ。
幸村軍はこうした兵の心理を利用し、野次を飛ばして挑発。吸い込まれるように堀になだれ込む徳川方の兵に銃弾と矢、落石を浴びせた。堀底は倒れた兵で埋まったという。
真田丸に敵兵を誘い込むことが幸村の仕掛けた最大の〝わな〟だったのかもしれない。奈良大の千田嘉博学長(城郭考古学)によると、真田丸は大坂城から完全に孤立した要塞だったことが判明したのだ。
豊臣期の上町台地の地形を復元した大阪歴史博物館の研究成果によると、真田丸があった場所は大坂城との間に深い谷があり、誤りと考えられていた江戸初期の実測図と一致。城からの援軍が見込めなかった
千田学長は「まさに背水の陣。幸村は守るだけでは勝てないと考え、自ら『おとり』になって相手をおびき寄せた。徳川方に血祭りに上げられるリスクを負った作戦だったが、見事に勝ち切った」と語る。
徳川方は大坂城どころか、真田丸にすら一兵も侵入できなかった。
真田家と徳川家の因縁
真田家と徳川家は天正11(1583)年以来、激しく対立した。この年、幸村の父、昌幸は、信州上田城を拠点とする真田領の一部を北条氏に引き渡すよう家康から命じられたが、拒絶。上杉景勝と手を結ぶ。
激怒した家康は天正13(1585)年、7千の兵で上田城を攻めたが、真田方は奇策を駆使して2千の兵で打ち破った(第一次上田合戦)。幸村はこのとき18歳の若武者だった。
天下人、豊臣秀吉の死没2年後、慶長5(1600)年に家康は東国の大名に景勝討伐を命じた。一方、豊臣側からは家康を討つべしとの書状が届き、昌幸と幸村はこれに応じて西軍に、幸村の兄、信幸は徳川方の東軍につくことを決めた。
同年9月、家康の息子、秀忠は関ケ原の戦いに向かう途上で上田城を攻めた(第二次上田合戦)。徳川方3万8千に対し真田方は2500。兵数の差は歴然だったが、城を落とせないまま時間だけ取られた秀忠軍は、関ケ原の主戦場に間に合わず、家康の逆鱗に触れる。
関ケ原で敗軍側にくみした昌幸と幸村は、信幸の取りなしで死罪こそ免れたものの、九度山での隠棲を余儀なくされた。
朱塗りの武具で統一した「赤備え」は常勝を誇った甲斐・武田氏の軍団をルーツとする。豊臣方と徳川方が激突した400年前の大坂の陣でも精強部隊の代名詞となった。豊臣方は知将、真田信繁(幸村)の真田隊、そして徳川方にも〝徳川最強〟とうたわれた井伊直孝率いる井伊隊がいた。野戦の名手として鳴り響いた家康が認めた「井伊の赤牛」。野戦となった夏の陣で真価を発揮した直孝の戦いぶりとは-。(川西健士郎)
「井伊の赤備え」のルーツは、天正10(1582)年の武田氏滅亡にさかのぼる。このとき、武田旧臣を徳川に組み入れる交渉をしたのが直孝の父、直政だった。家康は武田旧臣を直政に付け、武田隊の兵法が継承された。
「徳川四天王」の一人に数えられた直政が慶長5(1600)年に起きた関ケ原の戦いの2年後に他界すると、直孝の兄、直継が家督を継ぐ。しかし家康は慶長19年の大坂冬の陣に際して、病身の直継に代わって直政に似て剛直な直孝を井伊隊の大将に指名した。
同12月。井伊隊は豊臣方の真田幸村が大坂城南に築いた出城「真田丸」に攻め入って失敗、大きな損害を被った。ところが戦いぶりを見た家康は「若い者は少々粗忽(そこつ)でもよい」と直孝をほめたと伝えられる。
翌20年の夏の陣。井伊隊は、外様大名で最も家康の信頼が厚かった藤堂高虎隊とともに先鋒(せんぽう)を務めた。5月6日、屈指の激戦として知られる八尾・若江の戦いで豊臣方の木村重成隊と激突。高虎は長宗我部盛親(ちょうそがべもりちか)隊と戦った。
八尾市立歴史民俗資料館の小谷利明館長は「直孝と高虎は戦いに至る過程が対照的だった」と指摘する。
前日5日の晩、生駒山地中腹の八尾市楽音寺周辺に陣取った直孝は村の民家を壊して兵を野営させた。すぐ南側で陣取った高虎は民家に兵を泊まらせた。
徳川方の軍議で両隊は約8キロ南方の道明寺に向かうことになっていた。そこが決戦の場になると予測されていたからだ。ところが6日未明、大坂城を出た豊臣方の軍勢のうち、南東方向の道明寺に向かう後藤又兵衛隊などとは別に、長宗我部隊と木村隊は東進を始めた。
東進は想定外だったが、忍びの情報から奇襲攻撃の動きを察知した直孝は、家康の軍令を守らず、迫りつつある木村隊と戦う決断を即座に下す。一方、長宗我部隊の来襲を知った高虎は軍令変更の命令を受ける必要があると考えて逡巡し、攻撃が遅れた。
藤堂隊は長宗我部隊に大敗。だが、井伊隊は木村隊を破り、その勢いで長宗我部隊も退散させた。冬の陣の雪辱を果たし、家康の期待に応えたのだ。
「東進を見通していたかのように臨戦態勢を敷いて野営し、奇襲に完璧(かんぺき)に対応した直孝の判断力は際立っている」と小谷氏は語る。
同8日、直孝は秀頼と母の淀殿が逃げ込んだ大坂城の山里曲輪を包囲。「秀頼母子を生かし置いては終(つい)に後の禍(わざわい)を遺すものなり」(『徳川実紀』)と一斉射撃を浴びせて自害に追い込んだ。この武功で井伊家の5万石加増とともに官位昇格を得て、島津家の薩藩旧記に「日本一の大手柄」とたたえられた。
幕政中核担った政治家
彦根藩主・井伊家といえば、徳川家康を支えた「徳川四天王」の直政、開国の決断を下した幕末の大老、直弼(なおすけ)が有名だ。知名度では劣る直孝も剛毅な人柄が伝えられる一方、武功を立てた大坂夏の陣の後、40年以上にわたって幕府や彦根藩の政治を取り仕切った実務家の顔を併せ持つ。井伊家18代当主で滋賀県彦根市文化財課職員の直岳さん(45)は「目配りの行き届いた人物という印象が強い」と語る。
直岳さんは三重県桑名市出身。京都大大学院で日本史を専攻し、『新修彦根市史』の編纂(へんさん)のため彦根市の市史編纂室で勤務するまで井伊家とは無縁だった。職場結婚の相手が井伊家の長女で男子の兄弟がいなかったことから、家督を継ぐことになった。
「井伊家には今に受け継がれる家訓のようなものはない。ただ、彦根藩の礎を築いた直孝にはいくつかの逸話が伝わっている」
少年時代に屋敷に飛び込んだ盗賊を撃退したという言い伝え。独眼竜で知られる伊達政宗が関ケ原の戦いの際に家康から拝領した「百万石のお墨付き」を取り上げ、新たな火種になるからと焼いたという逸話も残る。
ネコが寺の門前で手招きをするようなしぐさをしたので寺に立ち寄ると雷雨になり、ネコに感謝して雨宿りをした寺に寄進した-という言い伝えは、全国的な人気を誇る彦根市のゆるキャラ「ひこにゃん」誕生のモチーフになった。
こうした逸話からは、夏の陣で武功を立てた武人らしく豪胆で実直な人柄が伝わる。ただ、直岳さんが着目するのは、事実上の初代大老として幕政の中核を担った直孝の「政治家」としての側面だ。
「直孝が江戸から藩に送った指示書やその写しが200通以上も残っている。内容はキリシタンの取り締まりから藩の人事まで多岐にわたる」
直孝の活躍によって15万石から30万石に加増された彦根藩では、大きな農民一揆が起きなかった。「藩の安定と指示書の因果関係は今後の研究課題だが、直孝は幕政を大局から判断する役割を担いながら、一方で藩の現実もよく見ていた」と評価するのだ。
「着眼大局、着手小局」の故事を想起させる政治姿勢は、徳川方を勝利に導いた夏の陣での戦いぶりに相通じる。
朱塗りの武具で統一した「赤備え」は常勝を誇った甲斐・武田氏の軍団をルーツとする。豊臣方と徳川方が激突した400年前の大坂の陣でも精強部隊の代名詞となった。豊臣方は知将、真田信繁(幸村)の真田隊、そして徳川方にも〝徳川最強〟とうたわれた井伊直孝率いる井伊隊がいた。野戦の名手として鳴り響いた家康が認めた「井伊の赤牛」。野戦となった夏の陣で真価を発揮した直孝の戦いぶりとは-。(川西健士郎)
「井伊の赤備え」のルーツは、天正10(1582)年の武田氏滅亡にさかのぼる。このとき、武田旧臣を徳川に組み入れる交渉をしたのが直孝の父、直政だった。家康は武田旧臣を直政に付け、武田隊の兵法が継承された。
「徳川四天王」の一人に数えられた直政が慶長5(1600)年に起きた関ケ原の戦いの2年後に他界すると、直孝の兄、直継が家督を継ぐ。しかし家康は慶長19年の大坂冬の陣に際して、病身の直継に代わって直政に似て剛直な直孝を井伊隊の大将に指名した。
同12月。井伊隊は豊臣方の真田幸村が大坂城南に築いた出城「真田丸」に攻め入って失敗、大きな損害を被った。ところが戦いぶりを見た家康は「若い者は少々粗忽(そこつ)でもよい」と直孝をほめたと伝えられる。
翌20年の夏の陣。井伊隊は、外様大名で最も家康の信頼が厚かった藤堂高虎隊とともに先鋒(せんぽう)を務めた。5月6日、屈指の激戦として知られる八尾・若江の戦いで豊臣方の木村重成隊と激突。高虎は長宗我部盛親(ちょうそがべもりちか)隊と戦った。
八尾市立歴史民俗資料館の小谷利明館長は「直孝と高虎は戦いに至る過程が対照的だった」と指摘する。
前日5日の晩、生駒山地中腹の八尾市楽音寺周辺に陣取った直孝は村の民家を壊して兵を野営させた。すぐ南側で陣取った高虎は民家に兵を泊まらせた。
徳川方の軍議で両隊は約8キロ南方の道明寺に向かうことになっていた。そこが決戦の場になると予測されていたからだ。ところが6日未明、大坂城を出た豊臣方の軍勢のうち、南東方向の道明寺に向かう後藤又兵衛隊などとは別に、長宗我部隊と木村隊は東進を始めた。
東進は想定外だったが、忍びの情報から奇襲攻撃の動きを察知した直孝は、家康の軍令を守らず、迫りつつある木村隊と戦う決断を即座に下す。一方、長宗我部隊の来襲を知った高虎は軍令変更の命令を受ける必要があると考えて逡巡し、攻撃が遅れた。
藤堂隊は長宗我部隊に大敗。だが、井伊隊は木村隊を破り、その勢いで長宗我部隊も退散させた。冬の陣の雪辱を果たし、家康の期待に応えたのだ。
「東進を見通していたかのように臨戦態勢を敷いて野営し、奇襲に完璧(かんぺき)に対応した直孝の判断力は際立っている」と小谷氏は語る。
同8日、直孝は秀頼と母の淀殿が逃げ込んだ大坂城の山里曲輪を包囲。「秀頼母子を生かし置いては終(つい)に後の禍(わざわい)を遺すものなり」(『徳川実紀』)と一斉射撃を浴びせて自害に追い込んだ。この武功で井伊家の5万石加増とともに官位昇格を得て、島津家の薩藩旧記に「日本一の大手柄」とたたえられた。
幕政中核担った政治家
彦根藩主・井伊家といえば、徳川家康を支えた「徳川四天王」の直政、開国の決断を下した幕末の大老、直弼(なおすけ)が有名だ。知名度では劣る直孝も剛毅な人柄が伝えられる一方、武功を立てた大坂夏の陣の後、40年以上にわたって幕府や彦根藩の政治を取り仕切った実務家の顔を併せ持つ。井伊家18代当主で滋賀県彦根市文化財課職員の直岳さん(45)は「目配りの行き届いた人物という印象が強い」と語る。
直岳さんは三重県桑名市出身。京都大大学院で日本史を専攻し、『新修彦根市史』の編纂(へんさん)のため彦根市の市史編纂室で勤務するまで井伊家とは無縁だった。職場結婚の相手が井伊家の長女で男子の兄弟がいなかったことから、家督を継ぐことになった。
「井伊家には今に受け継がれる家訓のようなものはない。ただ、彦根藩の礎を築いた直孝にはいくつかの逸話が伝わっている」
少年時代に屋敷に飛び込んだ盗賊を撃退したという言い伝え。独眼竜で知られる伊達政宗が関ケ原の戦いの際に家康から拝領した「百万石のお墨付き」を取り上げ、新たな火種になるからと焼いたという逸話も残る。
ネコが寺の門前で手招きをするようなしぐさをしたので寺に立ち寄ると雷雨になり、ネコに感謝して雨宿りをした寺に寄進した-という言い伝えは、全国的な人気を誇る彦根市のゆるキャラ「ひこにゃん」誕生のモチーフになった。
こうした逸話からは、夏の陣で武功を立てた武人らしく豪胆で実直な人柄が伝わる。ただ、直岳さんが着目するのは、事実上の初代大老として幕政の中核を担った直孝の「政治家」としての側面だ。
「直孝が江戸から藩に送った指示書やその写しが200通以上も残っている。内容はキリシタンの取り締まりから藩の人事まで多岐にわたる」
直孝の活躍によって15万石から30万石に加増された彦根藩では、大きな農民一揆が起きなかった。「藩の安定と指示書の因果関係は今後の研究課題だが、直孝は幕政を大局から判断する役割を担いながら、一方で藩の現実もよく見ていた」と評価するのだ。
「着眼大局、着手小局」の故事を想起させる政治姿勢は、徳川方を勝利に導いた夏の陣での戦いぶりに相通じる。