[PR]
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
日本を取り巻くアジア情勢の変化 世界の情報を辛口で伝える情報部ログ 世の中はめまぐるしくかわっていきます その中で取り残されない為の情報をお伝えします Changing Asian situation surrounding Japan Tell the world information by information Department log The world is rapidly mood In order not to lag behind in its informed the <a href="https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=3BDZ68+72TSYA+4IRQ+5YJRM" rel="nofollow">なんでもまとめてお売りください!宅配買取「いーあきんど」</a> <img border="0" width="1" height="1" src="https://www19.a8.net/0.gif?a8mat=3BDZ68+72TSYA+4IRQ+5YJRM" alt="">
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
The Tungchow Mutiny (Japanese: tuushu Events
In early 1937, Tongzhou was capital of the East Hopei Government, a Japanese puppet state controlling the strategic eastern district of Beijing. In July, a detachment of approximately 800 troops of the Chinese 29th Army, under the command of General Sung Che-yuan and loyal to the Kuomintang government, camped outside the walls of Tongzhou. Refusing to leave despite the strong protests of the Japanese garrison commander,[1] the Japanese did not know that General Sung had reached an agreement with East Hopei leader Yin Ju-keng, who hoped to use Sung's Kuomintang troops to rid himself of his Japanese overlords.
On 27 July, the Japanese commander demanded that the Kuomintang soldiers disarm. When they refused, fighting erupted the following day, and the outnumbered and outgunned Chinese troops were trapped between the Japanese and the city wall. However, the Kuomintang Chinese troops' unwillingness to surrender in what was essentially a suicide mission strongly affected the Japanese-trained 1st and 2nd Corps of the East Hopei Army who were attached to the Japanese army. When East Hopei Army units refused to press the attack, Japanese troops bombed their barracks on the evening of 28 July. On midnight of 28 July, some 5000 troops of the 1st and 2nd Corps of the East Hopei Army mutinied, turning against the Japanese garrison.[1]
In addition to Japanese military personnel, some 260 civilians living in Tongzhou in accordance with the Boxer Protocol of 1901 were killed in the uprising (predominantly Japanese including the police force and also some ethnic Koreans). Only around 60 Japanese civilians survived and they provided both journalists and later historians with firsthand witness accounts. The Chinese set fire and destroyed much of the city.
Anti-Chinese sentiments were further intensified in Japan. The popular Japanese slogan in those days was "To punish China the outrageous" (Chinese: ; pinyin: Bōrei Shina Yōchō or its shorter version Chinese: pinyin: Bōshi Yōchō). The Japanese military adventurists stationed in China used this incident to justify further military operations under the pretext of protecting Japanese lives and properties in and around Beijing. After World War II the Japanese defence team at the International Military Tribunal for the Far East (the Tokyo War Crimes Tribunal) submitted the official statement made in 1937 by the Ministry of Foreign Affairs of Japan as the inevitable cause of the Sino-Japanese conflicts, but presiding judge Sir William Webb KBE rejected it as evidence.
「政治活動」と称する記者会見設定、いまも抜けない占領者気分。日本について悪意に満ちた情報を海外に垂れ流すメディア拠点の実態を暴く
血気盛んな内紛劇
“特派員協会の落日”という記事が朝日新聞に載ったのは4年前だ。
会員数が減少し続け、3年連続赤字の「日本外国特派員協会は苦境に立たされ」ている。その背景には「世界的な不況と欧米メディアの経営難」があるという。しかし理由はそれだけではない。というより実は他にある。
情報誌・月刊FACTA5月号がその内紛劇を報じている。元会長たちは不正乱脈な協会運営に対して2つの訴訟を、現・元従業員たちも不当労働行為で3つの訴訟を、外国特派員協会(FCCJ)を相手取り東京地裁に起こした。
先に起された労働訴訟で、協会側は慰謝料まで支払い、完敗を喫した。労働問題は都労働委員会にも持ち込まれ、和解出来ず証人喚問となった。訴訟合戦に明け暮れているのだ。これは別な意味で活力にあふれていると言える。会員数が減っているくらいでヘタレるヤワな組織ではない。
FCCJは有楽町駅前ビル最上の2フロアを占めている。日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)が接収した第一生命ビルの斜め向かいにあり、日比谷通りの向こうに広大な皇居の森が見渡せる
浅田真央はソチ五輪から帰国し、成田空港からその記者会見場に直行した。多くの日本人は、中央に「Est.1945」と錦糸で縫い込まれた濃紺の協会旗を背に、晴れやかな表情で質問に答える彼女をテレビや新聞で見たことだろう。
ここでの会見が発端となって首相の座を追われた者がいる。田中角栄だ。雑誌に首相の金脈問題が載っても日本のマスコミは静かだった。しかし外人記者が世界に打電して騒動に火を点け、田中は辞任に追い込まれた。そういう怖い場所でもある。
ニューヨーク・タイムズ元東京支局長H・S・ストークスはFCCJの本姿を次のように述べている。
日本外国特派員協会は、マッカーサーの日本占領と同時に設立された。理由は、アメリカによる日本占領がいかに正しく、人道的であり、歴史の偉業であるか、全世界へ向けて報道させるためだった。
日本外国特派員協会の会旗(バナー)にも、「1945年設立」と占領の年が、誇らしげに刻まれている。いわば日本占領の、もっといえば東京裁判史観を、世界中に撒き散らした総本山が、日本外国特派員協会といってよい。
マッカーサーはメディアの力を目いっぱいに活用して、自らのエゴを美しく飾り立てた(『英国人記者の見た連合国戦勝史観の虚妄』)。
占領期、FCCJはGHQの情報発信基地だった。占領軍が去った講和後もそのスピリットを受け継いだ外人ジャーナリストたちは、いまなお日本人を敗戦国民扱いし、反日活動にいそしんでいる。その姿をあぶり出してみよう。
歴代「害人記者」のすさまじい所業
週刊新潮(2011年2月3日号)に「害人記者会」というタイトルの記事が載った。書いたのは元新聞記者だ。あらましは次のようなものだ。
●シカゴ・サン紙特派員マーク・ゲインは『ニッポン日記』で敗戦下猖獗を究めた米兵の狼藉に一行も触れていない。
狼藉とは調達庁の調べとして占領期間中、米兵により、毎年平均350人の日本人が殺され、1000人以上の婦女子が暴行されたことだ。
GHQの強要で日本政府が設けた慰安施設(売春宿)について「米軍を腐敗させようとするぬかりない日本側の謀略がある。その武器は酒と女で、目的は占領軍の士気と占領政策の破壊にあった」とすり替えた。
10万人が生殺しにされた東京大空襲の焼け跡を眺め、「6千人は死んだ」と平然とウソをついている。
日本にはまだ十分過ぎる工業力があるから「製鉄、造船施設の大半を支那・朝鮮にやろう。それでも日本は豊かだ」と言う。他のアジア諸国が日本より貧しかったのは白人たちに植民地として搾取されていたからだろう。
南ドイツ新聞のボルクは皇太子殿下の写真に「失敗」のキャプションをつけた。
●NYタイムズのデビット・サンガーは小錦に人種偏見で横綱になれないとしゃべらせた。人種偏見とは黒人奴隷を使い、ポリネシア人が平和に暮らしていた南国の楽園ハワイをかすめ取り、十万人単位でフィリピン人を虐殺したアメリカ人のためにある言葉だ。
●サンガーの後任のクリストフは日本兵が人肉を食らったと書いた。
●その後任のハワード・フレンチは在日朝鮮人の犯行を日本人がやったと書いた。
極東に優秀な記者は来ない。日本にやって来た外人記者の大半はウソやデタラメしか書かなかった。
それでも大手の欧米報道機関が職業記者を送り込んでいた時代はマシだったという。留学や物見遊山で日本にやって来て本国に帰れなくなり、他にやることがなくジャーナリストを名乗るようになった輩がFCCJに巣食いだした。それが協会幹部になってから酷くなったという。その仲間に、暇を持て余した日本人たちが加わってメチャクチャになった。
通信社の元極東総支配人、民族学学者崩れ、大手新聞元外報部長、英語教材会社のHPに「外国特派員クラブの窓から」というコラムしかない老嬢、経済誌の元編集委員などだ。
FCCJは「特定秘密保護法案」の可決間際、それを阻止しようと反対キャンペーンを張った。
昨年11月14日、福島瑞穂(社民党)、主濱了(生活の党)、仁比聡平(日本共産党)、山本太郎(無所属)を招いて「特定秘密保護法案に反対する野党超党派議員」の会見を開いた。
12月2日、清水勉(弁護士)、桐山桂一(東京新聞論説委員)、三木由希子(情報公開クリアリングハウス理事長)による「特定秘密法案と報道の自由」のテーマで会見をやった。
老嬢は、同法案が成立してよほど悔しかったのだろう。英語教材会社のHPに「安倍政権はこの悪法を12月6日成立させたが、2014年の(FCCJの)重要課題として廃案、または運用面できっちり箍をはめさせるようメディアも人々も国会の動きを監視し続けねばならない。メディアの傲慢と民衆の無知が時の政権に利用され大東亜戦争に至った苦い記憶を、日本国民のかなりの数が共有している」と書き込み、怪気炎を吹きあげた。
FCCJの機関誌「No.1 Shimbun」は「秘密法が調査報道に与える影響」を特集した。そこで会長(FCCJトップ)は、「歴史的に、FCCJは見解が分かれる論争において、中立の立場を保ってきた。しかし報道の自由を侵す行為は看過できない」と表明した。
ほんとうにFCCJは中立を守ってきたのだろうか。
http://blogs.yahoo.co.jp/tutimikadohayato it
my blog
江沢民と中山服
読者の方々は江沢民が中国の国家主席として来日した時のことを覚えておられるだろうか。平成10(1998)年11月のことである。そして彼は宮中晩餐会において、場所柄もわきまえない非礼極まる発言をした。
「近代史上、日本帝国主義は対外侵略拡張の誤った道を歩み、中国人民とアジアのほかの国々の人民に大きな災難をもたらし、日本人民も深くその害を受けました。『前事を忘れず、後事の戒めとする』と言います。我々はこの痛ましい歴史の教訓を永遠に汲み取らなければなりません」
マスコミは彼の発言に注目したが、私はこの時の彼の不思議な服装にも大いに注目していた。中山服を着ていたからだ。それをテレビで見ながらニヤニヤしていた。
その後、マスコミとの会見があっても、彼の着た中山服について質問する記者はいなかった。もし私がその場にいたら、以下のように聞いていただろう。
「あなたの着ていた中山服をデザインしたのは誰か知っていますか? 孫文ではありませんよ」
江沢民が「知らない」と言えば、「あなたの嫌いな日本軍人ですよ。しかも南京攻略戦に旅団を率いた人物です」と二の矢を放てば、彼はどんな顔をしただろうか。
その場は繕っても、彼は後であの中山服を引き破ったかもしれない。私は自分の新著『日本はいかにして中国との戦争に引きずり込まれたか』でその日本軍人の評伝を書いた。江沢民が存命なうちに出せることが嬉しくてたまらない。中国要人はもう二度と公式の場で中山服を着ることができないであろう。
佐々木到一は張作霖爆殺にいかに関わったか
中山服のデザインをしたのは広東駐在武官時代の帝国陸軍軍人、佐々木到一である。私にとっては石原莞爾に次ぐ、2人目の昭和史の軍人を今回扱ったわけである。
佐々木という軍人は一般的にどういう理解をされている人物なのであろうか。
まずは先に述べたように、南京攻略戦に旅団を率いた人物である。
次に、1928(昭和3)年に起きた済南事件に遭遇して、殺されかける目に遭った軍人である。
もう一つは自分が張作霖爆殺事件に関わったと『ある軍人の自伝』に述べていることである。『ある軍人の自伝』は彼の死後に発掘された手記である。私はこれが書かれた時期はおそらく昭和10年代初期と考えている。
張作霖爆殺事件に関しては、戦後河本大作の手記というのが『文藝春秋』誌に掲載されて、ほぼ定説となっていた。しかし『マオ-誰も知らなかった毛沢東』が出て以来、その定説に揺らぎが出始めた。ソ連の特務機関の犯行という説が登場してきたのである。これに応じて日本でも、『謎解き「張作霖爆殺事件」』(加藤康男著)が出版された。これには張学良の親殺しという説も書かれている。
私も佐々木の評伝を書く上において、張作霖爆殺事件に佐々木がいかに関与したかを書かざるを得ない。河本と佐々木は『ある軍人の自伝』でも書かれているように親しい関係である。彼が仲介して、東宮鉄男と河本も広東で親しくなっている。
私は蔵書の『皇帝溥儀』(工藤忠著)を再読した。工藤は満洲国皇帝溥儀の侍従長にもなった人物だが、元々は大陸浪人である。しかし彼は孫文の革命運動を援助していた山田純三郎とも縁がある、由緒正しい青森県人である。
張作霖爆殺当時、工藤はその独自の情報網を駆使して爆殺事件の背後を探った。そして事件当日の昭和3年6月4日から10日後には、日本政府に河本大作らの陰謀だと連絡を入れている。日本政府にとっても工藤ほどの情報通はいなかっただろう。
実際の爆破を行なったのは、東宮鉄男中尉(当時)である。東宮は支那事変で戦死した後、その人格と武勲が評価され、満洲のチャムスには記念館が建てられ、『東宮鉄男傳』という伝記も戦時中に作られている。彼が克明につけていた日記も伝記に紹介されている。しかし張作霖爆殺事件の前後、2週間ほどその記述はわざと省かれている。
私はどう考えても、河本、東宮が関与したのは否定できまいと思う。問題は工藤が『皇帝溥儀』で書いている張作霖政権の反日活動である。張作霖は親日で、日本軍が顧問を付けていたではないかという人もいようが、それ以上に当時の張作霖の反日活動はひどくなっていたのである。その事件の数々を新著で詳しく紹介した。関東軍だけが張作霖を批判していたのではない。満洲の日本居留民たちが激昂し、張作霖に農作をする権利を横暴に奪われるなどしていじめられる朝鮮人農民らは日本政府による保護を強く求めていたのである。
河本自身が満洲で耕す朝鮮農民を憐れんでいる証言も新著に出した。張作霖爆殺事件のひと月半前に磯谷廉介宛てに書いた河本の《爆殺予告》の手紙のコピーも私の手元にある。
張作霖政権が親日に見えていたのは、張作霖の幕僚に王永江という満洲モンロー主義を掲げていた知性豊かな親日の人物がいたからこそのことである。彼も最後は張作霖を見限ったのである。河本も本当の親日派である王永江と親しくしていたのは間違いない。
満洲の張作霖の反日行為を憂慮していたのは、広東駐在武官の佐々木到一である。彼は現役武官時代に6冊も本を出すジャーナリスト性があり、昭和2年9月には『武漢乎南京乎』を出版している。なんとそれに張作霖の参謀長である楊宇霆に、「第二の郭松齢になれ」と堂々と書いている。郭松齢は1925年に張作霖に反逆して、逆に討伐されてしまった張の元配下である。佐々木は知人である楊宇霆に反逆を勧めていたのである。
楊宇霆は日本の陸軍士官学校を出ており、満洲でも日本人と付き合いの多い人物である。不思議なのは張作霖が乗る列車が爆破されてから、楊宇霆がなぜか故郷に帰ったまま奉天にも戻らないことである。
事件翌年の1929(昭和4)年1月11日、張学良は楊宇霆と彼の配下の常蔭槐を呼び出し、射殺した。その八日後の『満洲日日新聞』には、張学良が「張作霖爆殺の真犯人は楊宇霆だ」と発表したと出ている。その2日後には殺害関係者にロシア人5名がいると記事が続く。しかしこのロシア人は特務機関でなく、金に困っていた亡命ロシア人たちのようだ。
ただ当時の情報が錯綜していたかもしれず、亡命ロシア人を装った特務機関員だった可能性はある。事件前年の1927年4月に張作霖は北京のソ連大使館を強制捜査しており、ソ連と国交断絶の険悪な関係になっていたことは確かなのである。
河本と楊宇霆の間に連絡があったのは日本政府も知っていた。これは外交文書に報告書がある。つまりソ連と日本の願望が偶然一致した可能性はある。従って爆殺事件へのソ連関与説は成り立ち得るが、私は限りなく小さいと考える。
これ以上のことは拙著を読んでもらうにして、河本も東宮も個人的な張作霖憎しの念で行動したのではない。満洲における日清日露の戦いの尊い犠牲のもとに築かれた日本の権益を保持するためには、これしかないという最後の手段を彼らは選択したのである。私心はなかった。
日露戦争は外債を募って始めた戦争であり、勝利したと言っても賠償金は取れず、その債務は昭和になっても残り、日本はそれを払い続けねばならなかった。日本人の血を代償に、ロシアから取り返して中国にただで返してやったその満洲で、そのお金を稼ぎだすことはおかしいことかと彼らは考えていたのである。
張作霖がやろうとしたのは日本の満洲利権の無慈悲なる回収だったのだ。息子の張学良もその遺志を受け継いで、さらなる排日手段を行使するようになった。これが満洲事変の最大原因である
http://blogs.yahoo.co.jp/tutimikadohayato it
mybulogガチンコ情報の架け橋Bridge information's t read me