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朝から怪しい雲行きだったが、地下鉄の駅まで歩いている途中で降り出した雨がひどく、まるで川の中を歩いているよう。ズボンはびしょぬれで、靴の中も水であふれかえった。
会社に入る前、数枚のタオルと替えの靴下、スリッパを買い込む予定外の出費となった。
そして9月12日。幕府軍に追われた満祐が最期を遂げる兵庫の城山(きのやま)城のあった亀山をのぼる。脚力に自信はあったので一番険しいが、目標までの距離が一番短いコースを選んだ。
だが予定時間を過ぎても着かない。「おかしい」と思い後ろを向くとすでに後戻りできるような状態でなかった。どうやらコースから外れたようだ。このため危険な場所を避けつつ進み何とか到着するも、今度は持病が出て活動はここで中止し、下山した。
さらに起こる“怪”事件。その極めつけが翌日にあった。手首に巻いていた数珠のひもが切れ、ひとつの玉の中にあった仏の写真が消えていたのだ。
職業柄、非科学的な現象の存在を信じていいのかとも思うが、50歳を過ぎてからというもの、不気味とか不吉といった感覚は次第に薄れている。「こういった因縁とのおつきあいも悪くない」と思っている自分がいるのである
狂乱
いつになく寒さの厳しい夜だった。京の人々も眠りに就き、シーンと静まりかえったころ、現在の三条烏丸周辺に広がる後白河上皇の御所「三条殿」に近づく軍勢があった。
最初は遠くかすかに聞こえていた音もしだいに大きくなり、御所の前でピタリと止まった。御所は大勢の兵に囲まれた。
「何事だ」と色めき立つ御所内の貴族や女官。その瞬間、「バーン」と強烈な音で崩れる門や塀から次々と入ってくる甲冑を身にまとった武士ら。
以前から襲撃の噂が絶えなかった源義朝を中心にした軍勢だということはすぐにわかった。
広さが120メートル四方と広い御所とはいえ、多くの手勢で探したため、上皇の身柄を確保するのにそう時間はかからなかった。上皇を御所の外へ連れ出すと、義朝らは一斉に御所に火を放った。
建物が炎上し、逃げ惑う丸腰の貴族らに矢を射る容赦ない攻め。火に巻き込まれて断末魔の叫びとともに焼死する者も。
さらには猛火の熱に耐えられず、御所内の井戸の中に身を投げ、そのまま水死する女官も数多くいたという。
寝殿造の建物に州浜と池の広がる庭園。そこで繰り広げられる歌舞音曲の世界。襲撃前までは平安貴族のみやびの拠点とされた三条殿も一夜で灰燼(かいじん)に帰してしまった。
信西はどこに?
後白河上皇が前年の保元3(1158)年、息子の二条天皇に皇位を譲ったものの、以後も政治の主導権を握ったため、天皇親政を目指す反上皇派と朝廷内は分裂。
さらに上皇に登用された藤原氏の非主流・南家出身の信西が平清盛と結びつく一方、主流・北家出身の藤原信頼は信西に反感を持ちつつ、出世レースで清盛に後れをとっていた義朝と同盟関係を結ぶ。
そして、後白河親派で最大の軍事力を持つ平清盛がいない隙をついたクーデターは一応成功したかのようにみえた。
だが、襲撃の際も焼け跡を探しても、もうひとりのターゲット、信西の姿が見当たらなかった。
実は、襲撃のことを直前にキャッチした信西は南へと向かい、自領の宇治田原から大和へ入り、そこで清盛に助けてもらう算段をしていた。
そして、清盛は
クーデターの5日前、熊野参詣のため京を出た清盛は熊野本宮大社や熊野那智大社、青岸渡寺などを巡る予定だった。
ところが、御坊と田辺のほぼ中間点の熊野古道沿いにある切目王子(きりめおうじ)神社にさしかかったところでクーデターのことを知る。「いつかは」と予想していたとはいえ、それ以上に早い反白河派の動き
そして首謀者の中に、ライバル・源義朝がいることに衝撃を走らせた。
今、周囲にはわずかの手勢しかいない。「このままでは自分も」と動揺する清盛は、平家の経済的基盤・日宋貿易の拠点、太宰府まで逃げることを考える。
だが、紀州の武士や熊野三山を統括する熊野別当らの協力で100人程度の兵を集めた清盛は京へ戻ることを決心し、北へ反転を始めた。
だが、その直後、「摂津の阿倍野に義朝の長男、源義平(よしひら)が3千の兵と待ち構えている」との情報に接した清盛は再び心が揺らぐ。
源義平。通称、鎌倉悪源太。頼朝、義経の異母兄弟にあたる。久寿2(1155)年、十代半ばの義平は関東で義朝と対立する叔父・義賢の屋敷を急襲して討ち取り、その名をとどろかせた猛者中の猛者。
その評判を知る清盛は身震いを覚えたのだった。