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時代を見通す日本の基礎情報

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タタリ? “怪現象”に次々見舞われた歴史事件取材

足利義教(右)と赤松満祐(左)のタタリか…

足利義教(右)と赤松満祐(左)のタタリか
関西歴史事件簿」で室町幕府第6代将軍、足利義教が、赤松満祐に殺害された嘉吉の乱を取材した際に起きたちょっぴり因縁めいた話を。京都で義教の墓と殺害現場を撮影後、義教の首塚のある大阪の寺を参拝し、会社へ向っているときのことだった。

 朝から怪しい雲行きだったが、地下鉄の駅まで歩いている途中で降り出した雨がひどく、まるで川の中を歩いているよう。ズボンはびしょぬれで、靴の中も水であふれかえった。

 会社に入る前、数枚のタオルと替えの靴下、スリッパを買い込む予定外の出費となった。

 そして9月12日。幕府軍に追われた満祐が最期を遂げる兵庫の城山(きのやま)城のあった亀山をのぼる。脚力に自信はあったので一番険しいが、目標までの距離が一番短いコースを選んだ。

 だが予定時間を過ぎても着かない。「おかしい」と思い後ろを向くとすでに後戻りできるような状態でなかった。どうやらコースから外れたようだ。このため危険な場所を避けつつ進み何とか到着するも、今度は持病が出て活動はここで中止し、下山した。

 さらに起こる“怪”事件。その極めつけが翌日にあった。手首に巻いていた数珠のひもが切れ、ひとつの玉の中にあった仏の写真が消えていたのだ

 職業柄、非科学的な現象の存在を信じていいのかとも思うが、50歳を過ぎてからというもの、不気味とか不吉といった感覚は次第に薄れている。「こういった因縁とのおつきあいも悪くない」と思っている自分がいるのである

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京の地獄図・平治の乱【関西歴史事件簿】

焼き打ちシーンを描いた「平治物語絵巻 三条殿夜討巻」

焼き打ちシーンを描いた「平治物語絵巻 三条殿夜討巻」
源氏と平家の最初の本格的な戦いとなった平治の乱は平治元(1159)年12月9日夜、後白河上皇の御所、三条殿の襲撃から始まった。反上皇派の源義朝や藤原信頼らが上皇一派の最大勢力、平清盛が熊野参詣で不在中、起こした一大クーデター。目的は上皇の実権を奪い、上皇の懐刀、信西(しんぜい)入道を殺害することだ。御所に火を放ち逃げ惑う貴族や女官らに容赦なく矢を射かける。みやびやかな御所は一夜にして阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄絵巻へと変貌していった

狂乱

 いつになく寒さの厳しい夜だった。京の人々も眠りに就き、シーンと静まりかえったころ、現在の三条烏丸周辺に広がる後白河上皇の御所「三条殿」に近づく軍勢があった。

 最初は遠くかすかに聞こえていた音もしだいに大きくなり、御所の前でピタリと止まった。御所は大勢の兵に囲まれた。

 「何事だ」と色めき立つ御所内の貴族や女官。その瞬間、「バーン」と強烈な音で崩れる門や塀から次々と入ってくる甲冑を身にまとった武士ら。

 以前から襲撃の噂が絶えなかった源義朝を中心にした軍勢だということはすぐにわかった。

 広さが120メートル四方と広い御所とはいえ、多くの手勢で探したため、上皇の身柄を確保するのにそう時間はかからなかった。上皇を御所の外へ連れ出すと、義朝らは一斉に御所に火を放った。

 建物が炎上し、逃げ惑う丸腰の貴族らに矢を射る容赦ない攻め。火に巻き込まれて断末魔の叫びとともに焼死する者も。
さらには猛火の熱に耐えられず、御所内の井戸の中に身を投げ、そのまま水死する女官も数多くいたという。

 寝殿造の建物に州浜と池の広がる庭園。そこで繰り広げられる歌舞音曲の世界。襲撃前までは平安貴族のみやびの拠点とされた三条殿も一夜で灰燼(かいじん)に帰してしまった。

信西はどこに?

 後白河上皇が前年の保元3(1158)年、息子の二条天皇に皇位を譲ったものの、以後も政治の主導権を握ったため、天皇親政を目指す反上皇派と朝廷内は分裂。

 さらに上皇に登用された藤原氏の非主流・南家出身の信西が平清盛と結びつく一方、主流・北家出身の藤原信頼は信西に反感を持ちつつ、出世レースで清盛に後れをとっていた義朝と同盟関係を結ぶ。

 そして、後白河親派で最大の軍事力を持つ平清盛がいない隙をついたクーデターは一応成功したかのようにみえた。

 だが、襲撃の際も焼け跡を探しても、もうひとりのターゲット、信西の姿が見当たらなかった。

 実は、襲撃のことを直前にキャッチした信西は南へと向かい、自領の宇治田原から大和へ入り、そこで清盛に助けてもらう算段をしていた。

そして、清盛は

 クーデターの5日前、熊野参詣のため京を出た清盛は熊野本宮大社や熊野那智大社、青岸渡寺などを巡る予定だった。

 ところが、御坊と田辺のほぼ中間点の熊野古道沿いにある切目王子(きりめおうじ)神社にさしかかったところでクーデターのことを知る。「いつかは」と予想していたとはいえ、それ以上に早い反白河派の動き
そして首謀者の中に、ライバル・源義朝がいることに衝撃を走らせた。

 今、周囲にはわずかの手勢しかいない。「このままでは自分も」と動揺する清盛は、平家の経済的基盤・日宋貿易の拠点、太宰府まで逃げることを考える。

 だが、紀州の武士や熊野三山を統括する熊野別当らの協力で100人程度の兵を集めた清盛は京へ戻ることを決心し、北へ反転を始めた。

 だが、その直後、「摂津の阿倍野に義朝の長男、源義平(よしひら)が3千の兵と待ち構えている」との情報に接した清盛は再び心が揺らぐ。

 源義平。通称、鎌倉悪源太。頼朝、義経の異母兄弟にあたる。久寿2(1155)年、十代半ばの義平は関東で義朝と対立する叔父・義賢の屋敷を急襲して討ち取り、その名をとどろかせた猛者中の猛者。

 その評判を知る清盛は身震いを覚えたのだった。

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韓国軍慰安婦

韓国軍慰安婦 韓国軍慰安婦または大韓民国軍慰安婦 (한국군위안부、대한민국군위안부)は、1945年-1990年の韓国軍と在韓米軍によって慰安婦に動員された韓国人女性たち。韓国戦争以降1990年代まで在韓米軍の韓国駐留時[に大韓民国の国軍によって強行され、大韓民国の国軍と在韓米軍の性的欲求を解消する目的で強制的に集団的性行為を強要された慰安婦をいう。捕虜となった朝鮮人民軍女軍、女性パルチザンゲリラ、そのほかに朝鮮人民軍や中国の人民志願軍の占領地内の住民である朝鮮人女性のうちまだ疎開しなかった女性などが、共産主義者を助けたとの名目で強制的に性奴隷にされた。日本軍慰安婦との区別のために韓国軍慰安婦、大韓民国軍慰安婦と米軍慰安婦や国軍挺身隊などでも呼ばれる。 大韓民国国軍あるいは米軍にレイプされた韓国軍慰安婦の存在は、1990年代後半から韓国内で公論化され始めており、2002年2月、韓国の女性活動家金貴玉と姜貞淑などにより韓国軍慰安婦の存在が初めて公開された。旧日本軍慰安婦に続き朝鮮戦争前後にあった韓国軍と米軍による韓国女性の性犯罪の存在の調査と陳述確保などが韓国の女性団体を中心に進められている韓国軍が1951年-1954年まで「特殊慰安隊」という名前で、固定式あるいは移動式慰安婦制度を取り入れて運用したのは否定できない歴史的事実で、これは韓国陸軍本部が1956年に編纂した公式記録である『後方戦史』(후방전사)の人事編と目撃者たちの証言によって裏付けられた。 「慰安(婦)」という言葉が共通していることなどから韓国軍慰安婦は旧日本軍慰安婦にならってつくられたと考えられている。しかしながら、旧日本軍の慰安婦が民営であったのに対し、韓国軍の慰安婦は軍直営を超えて「慰安隊」として正規の軍組織となっていた点で大きく異なる。なお、通称日本軍慰安婦の場合は公募によるものであり、当時の公務員の平均給与を超えた高額給与が慰安婦に支払われていた。公募資料や給与明細などの資料が発見されている。 また、正規の「慰安隊」とは別に部隊長裁量で慰安婦を抱えた部隊もあり、ドラム缶に女性をひとりずつ入れて前線に運んだこともあるという。[軍にあって配分の際には、慰安婦は「第五種補給品」と称されていた(補給品には一~四種しかなかった)。 朝鮮戦争当時の韓国軍の公式・非公式慰安婦の規模に関する明確な情報はないが、金貴玉教授は朝鮮戦争直前の私娼の数5万人を下ることはないと見ている。なお、朝鮮戦争後には性売買をする女性は30万人余りに達したと推測されている。 朝鮮戦争後 [編集]朝鮮戦争が休戦になった翌年の1954年に「正規」の「慰安隊」はなくなったが、事実上の慰安隊が私娼の形で存続し費用は「厚生費」などの名目で支出されていた。 ベトナム戦争に参戦するにあたり韓国政府は朝鮮戦争時と同様な「慰安隊」設置を計画したが、米軍の反対に遭い実現はしなかった(駐越韓国軍司令官)。このことがベトナムの民間女性に対する強姦事件が多発したことの一因になっている。 そして、1990年ころも、軍の訓練所の外に 俗に「毛布部隊」と呼ばれる私娼窟があったとの報告がある。 国連軍(米軍) 慰安婦韓国政府は、韓国軍だけではなく国連軍のための慰安所も運営した。朝鮮戦争が始まってほどない1950年9月、釜山近くの馬山市に国連軍用の慰安所を5ヶ所設けたことが「釜山日報」に掲載されている

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