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マティス米国防長官は2日、シンガポールで開催中のアジア安全保障会議(シャングリラ対話)の講演で、中台関係について「現状を変更するあらゆる一方的な措置に反対する」と述べ、台湾周辺で軍事活動を活発化させている中国を牽制した。
マティス氏は昨年も台湾への武器供与に言及し、中国が反発した経緯がある。今回は武器供与に言及した上で、名指しは避けつつもさらに踏み込んだ表現で中国を批判した。その一方で、中台の緊張緩和も間接的に呼びかけた。
これに対し、中国代表団団長の何雷中将は記者団に「台湾問題は中国の核心的利益であり、挑戦を許すことのできないレッドラインだ」と反発。武器売却や米台の高官の接触にも反対の姿勢を強調した。
台湾の外交部(外務省に相当)はマティス氏の発言に「感謝と歓迎」を表明した
「悔し涙が出た」「信じられない思いだ」「賠償も受けられず、遺族は泣き寝入りすることになる」-働き方改革法案が衆院厚生労働委で可決された翌5月26日の朝日・毎日の紙面には、そんな過激な言葉が躍った。
〈NHK記者だった娘を過労死で亡くした佐戸恵美子さん(68)は採決後、遺影を抱えたまましばらく立ち上がれなかった。「労働時間規制をなくす高プロを入れれば、間違いなく働き過ぎで死ぬ人が増える。賛成した議員はそれがわかっているのか」。家族の会の寺西笑子代表(69)は「結論ありきで無理やり法案を通した。命に関わる法案の審議がないがしろにされた」と憤った〉。朝日がそう書けば、毎日も遺族のコメントを引用し、さらに日本労働弁護団幹事長の〈「高プロ対象者の時間的な裁量や、業務量の裁量は、法案のどこにも書かれていない。働き手は業務命令を断れず、従わざるを得ない」〉という談話を掲載した。
1面、社会面、論説面をブチ抜いて、働く側の過労死を助長する法案が強行採決で通った、と報じたのだ。
事実としたら許されざることであり、国民も黙ってはいられないだろう。だが、読売や産経を読むと、まるで趣きが異なってくる。
高度プロフェッショナル制度は、高収入の一部専門職を労働時間の規制から外すものだが、同じように過労死遺族の怒りの談話を紹介しつつも、同制度で利益を受ける側の話も出ているのだ。読売には50歳代の弁理士が登場し、「電話などで仕事が中断されやすい日中を避け、深夜や週末に集中して仕事をするやり方も選べる」「脱時間給の制度で、自分に合ったペースで働く方が成果が出て、賃金も上がると思う」と語る。これまでは深夜や週末にまとめて仕事をしたくても割増賃金となるため経営側から敬遠され、思い通りにならなかったというのだ。
法案は、維新の会と希望の党が加わって修正がなされ、適用は本人同意が必要との従来の内容に加え、新たに離脱規定も設け、本人の意思でいつでも離脱できるようになったことが記事では解説されている。つまり、加入も離脱も本人次第で、自分に有利と思えば適用を受け、嫌(いや)になればいつでも離脱できる「自分に得になる方式」を自由に選択できるものだというのだ。読売、産経両紙では野党による「過労死促進法案」との叫びに疑問が呈されている。
重要なのは、朝日・毎日には、一方のそういう受け取り方が書かれていないことだ。両紙が「安倍政権打倒」に執着したメディアであることは、もとより承知している。だが、自分の主張に都合の悪い情報は読者に提示せず、一方的な煽情(せんじょう)記事を書くのが果たして新聞の役割といえるのだろうか。
自分たちが、すでに「新聞記者」ではなく「活動家」となり果てていることを認識することをこの際、強くお勧めしたい。
建国日」めぐり未だに激しく対立する左派と保守系
2017年12月、中国を公式訪問した韓国大統領、文在寅(ムン・ジェイン)は内陸部の重慶市を訪ね、韓国の独立運動家、金九(キム・グ)が拠点としていた大韓民国臨時政府旧庁舎を見て回った。文は芳名録にこう書いた。
「大韓民国臨時政府はわれわれの根っこ。われわれの精神である」
文が分刻みの日程を割いてわざわざ重慶を訪れたのには深い意味があった。
韓国では未だに「建国日」をめぐり左派と保守系が激しく対立している。文は昨年、大統領就任後初の「光復節」(日本による朝鮮半島統治からの解放記念日)の祝辞で「2019年、大韓民国は建国と臨時政府樹立100年を迎える」と述べた。
これまで建国日とされてきた1948年8月15日を否定、1919年4月12日、上海で結成された亡命政府樹立記念日を建国日とする姿勢を明確にした。
しかし保守系の知識人らからは「臨時政府がつくられた当時、韓国は日本の植民地だった。臨政は領土や国民を実行支配したわけではない。国民も領土も主権もない国がこの世に存在するというのか」と疑問の声が出ている。
日本統治下でも南北は一つだった…
文在寅が建国日にこだわる理由を左派系メディアはこう解釈する。
「1919年起源論(韓国建国)の核心は“国民主権”“民族共同体”、すなわち同じ民族にある」(オーマイニュース)
当時の朝鮮半島は日本の統治下にはあったが、南北はひとつだった。48年の建国は北朝鮮を抜きにした分離選挙でできた単独政府だから正統性は認められないという主張だ。
臨時政府で同志だった李承晩(イ・スンマン)と金九が決別することになった決定的な理由も統一政府樹立をめぐる意見の違いだった。金九は民族が一つになれるなら金日成の共産主義勢力とも手を結ぶつもりだった。
終戦直後から朝鮮戦争が勃発する50年6月までの期間を韓国では「解放空間」と呼ぶ。日本支配からの解放後、朝鮮半島で真っ先に主導権を握ったのは左翼勢力を代表する呂運亨(ヨ・ウンヒョン)、金日成(キム・イルソン)・朴憲泳(パク・ホンニョン)が率いる急進的共産主義勢力、朝鮮共産党だった。
朴は当初、呂と活動をともにするが決別し、46年霊柩(れいきゅう)車に隠れて北へ入る。後に北朝鮮で内閣副総理などを務めた。朴が北へ渡った後の47年7月、呂は暗殺された。
南朝鮮(当時)では金日成と統一政府をつくることに懐疑的な世論が高まり、主要政治家の多くが南の単独政府樹立を主張するようになったが、同年12月、単独政府派の著名言論人、張徳秀が自宅で射殺されるなど世情は混乱を極めた。
くしくもそのタイミングに金日成は、統一民主国家樹立を話しあう「連席会議」参加を南側に呼びかけた。南側で単独政府樹立の動きが進むのを止めたかったからだ。
「朝鮮をソ連の衛星国家にするつもりの者たち」米国の反対押し切り平壌へ
金九が南北協議に応じることに政敵はもとより、側近らも反対したとされる。金九は呂らへの暗殺事件への関与が疑われ、裁判をうける身だったが、平壌行きを決行する。
後に、金九は当時の心境を次のように語った。「北が準備した式場に付き添い役として呼ばれているのではないかという指摘もあるが、とにかく行くのが正しいと思う」
米側も会議への参加に反対だった。軍政庁のホッジ長官は、「南から金日成が主催する会議に参加する人々の中には“有名な人(金九らを指す)”もいる。大多数は共産主義者の道具として朝鮮をソ連の衛星国家にするつもりの者たちだ」と声明を発表した
結果的に金日成の平和工作に利用される金九を文はたたえたのだった。
=敬称略
(龍谷大学教授 李相哲)
◇
北朝鮮が豊渓里(ブンゲリ)の核実験場を廃棄すると伝えられた4月21日。朝鮮労働党の機関紙、労働新聞に70年前に開かれた「南北朝鮮連席会議」を記念した新切手のイラストが掲載された。真ん中には右の手を高くあげ歓呼する群衆にむけ微笑む若き日の金日成(キム・イルソン)。その前には韓国で独立の英雄として尊敬される金九(キム・グ)が恭しい姿勢で立っている。金九は韓国大統領、文在寅(ムン・ジェイン)が深い敬意を示す人物だ。
会議が開かれたのは1948年4月19日。南朝鮮(当時)からは41の政党・社会団体を代表する395人が参加したが、その代表的な人物が金九だった。
韓国ではこの会合を「南北現代史上『初の首脳会談』」(2010年2月3日、韓国紙・ハンギョレ新聞)とたたえる人々がいる。左派と呼ばれる学者や政治家らだ。
1920年代、中国の上海を拠点に「大韓民国臨時政府」の主席として、日本の要人暗殺を指揮するなど独立運動を繰り広げた金九が韓国に帰還したのは45年11月。朝鮮半島はすでに38度線を境に二つに分かれ、対立の兆しを見せていた。
その年の12月、モスクワでは戦勝国の米・英・ソ連の外相会議が開かれ、朝鮮の統治体制について協議が行われた。米ソが朝鮮の各政党などと協議して臨時政府を設置、米英中ソで信託統治を行った後、独立国とする方針が決められた。
当時、ソウルでは雨後のタケノコの如く小政党が乱立、離合集散を繰り返しながら主導権争いに明け暮れていた。そのなかで主要な政治勢力を形成したのが中国帰りの金九、米国帰りの李承晩(イ・スンマン=後の韓国初代大統領)、中道左派の呂運亨(ヨ・ウンヒョン)らだったが、彼らはこぞって信託統治に反対した。
金九は「われわれがなぜ西洋人の靴を履くのか。草履をはこう。洋服も脱ぎすてよう」「わが民族は全滅することはあっても信託統治だけは受け入れてはならない」と主張した。
これらの運動の中で金九に追随する団体が、彼らの運動に加担しなかった韓国民主党初代党首の宋鎭禹(ソン・ジヌ)を暗殺した。
一方の北朝鮮では金日成がソ連軍政の支持を背景に地主の土地を没収して住民に分譲し、民族資本家や日本人が所有していた工場を奪い人民の手に委ねるなどして住民の歓心を得て政権基盤をつくっていた。
近年、ロシア政府が公開した旧ソ連の資料によれば、スターリンは朝鮮半島に進駐してすぐ単独政府をつくるつもりで金日成に指令を出した。
そのようなソ連・金日成側の思惑を知るはずのない金九は48年2月、南北要人会談を呼び掛ける手紙を金日成に出し、「南北同時に総選挙を実施して統一政府をつくろう」と呼びかけた。南北協力のもと、統一政府の樹立は可能だと信じていたのだ
金九は手紙にこう書いた。「われわれは自分自身の体が半分に分かれることはあっても祖国が分断されるのを見ることはできないではないか」
しかし、金九の絶叫が金日成の耳に届くはずはなかった。金日成にとって南側は対等な話し相手ではなく、やがては自分たちに従わせるだけの存在としか見ていなかったからだ。
金九を利用しようとした金日成側は、北朝鮮の政党・団体の名義で南側に「全朝鮮諸政党・社会団体代表者連席会議」を提案した。これが南北融和や統一とはかけ離れた希代の“詐欺劇”だったということは後に判明する。
70年前の「初の南北会談」から既に統一のビジョンが異なっていた北と南。 4月27日の南北首脳会談直前に労働新聞が突然、金日成と金九の絵を掲載したことには、どんな意味が込められていたのだろうか。 =敬称略 (龍谷大学教授 李相哲)