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時代を見通す日本の基礎情報

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▼127年前に「中国の脅威」を予見した明治の若者

高杉らを乗せた千歳丸による上海訪問から10年を経た明治5(1872)年、明治政府の外務卿・福島種臣は日清修好条規批准書交換のために清国に旅発つ。両国の国交が開かれたことにより、伊藤博文を筆頭とする政治家、外交官、軍人、学者、文人、経済人など多彩な明治人が大陸を訪れ様々な思いを綴っている。彼らの多くは“表玄関”から清国を訪れ、外交・経済・文化などを中心に“大上段”から清国を捉え、両国関係を論じた。

日清修好条規批准書交換は、じつは名も無き市井の人々にも大陸旅行の機会を与えたのである。それまで書物でしか知ることのなかった「中華」を、彼らは自ら皮膚感覚で捉え書き留めようと努めた。

かりに前者を清国理解における知性主義とでも表現するなら、後者は反知性主義と位置づけられるだろうか。これまで知性主義による清国理解は数多く論じられてきたが、反知性主義のそれにはあまり接したことがない。

歴史教科書で扱われることなどなかった明治人による反知性主義的清国理解を振り返ることは、あるいは知性主義の“欠陥”を考えるうえでの手助けになるのではないか。それというのも、明治初年から現在まで知性主義に拠って律せられてきた我が国の一連の取り組みが、我が国に必ずしも好結果をもたらさなかったと考えるからである。もちろん反知性主義だからといって、その結論が現在の我が国メディアで喧伝されがちな中国崩壊論に、あるいは無条件の中国礼讃論に行き着くわけでもないことは予め断わっておきたい。

iStock / Getty Images Plus / 4045

※なお原典からの引用に当たっては、漢字、仮名遣いは原文のままに留め、変体仮名は通常の仮名(たとえば「ヿ」は「こと」)に、カタカナはひらがなに改めることを原則としておく。

「支那人は自國を賛譽し誇稱して、外人を貶す」と自著の『支那漫遊實記』(博文館 明治二十五年)に記した安東不二雄は、明治24(1891)年9月に東京を発って「支那に渡」った。だが、「南清地方を漫遊中、今夏徴兵撿査の爲め呼戻され、遂に志を伸ぶる能はずして歸朝」している。この間の「滯留僅に數月」であり、「細状を悉くせんは至難」ではあったが、“何でも見てやろう”の好奇心に任せて大陸を歩いた。

 この年の5月には、来日中のロシア皇太子(後のロシア皇帝ニコライ2世)が護衛巡査の津田三蔵に切り付けられた大津事件が発生している。加えて日清戦争勃発は3年後である。日本はもとより清国でも緊張が高まっていたと思われるが、「滯留僅に數月」とはいえ、そんな内外状況のなかを徴兵検査前というから20歳前の若者が、いったい、どのような志を抱いて「支那漫遊」をしたものか。

「欧米経由の中国認識」に危機感を抱いた明治の若者

 安東は先ず「支那を視る日本人の眼孔」に疑問を抱く。

「是まで遠く數千里の彼方に在る、歐洲米洲の事情は、善惡となく巨細となく多くの邦人に知られつるに、僅に一葦水を隔つる、志かくも我れと最も親密の利害を有する、西隣舊交國の事情に就ては、却て我同胞の注意を惹くこと極めて冷然たりしは何ぞや」との義憤を抱く。次いで日本人は列島に縮こまってしまい、「拝西主義の潮勢に捲き去られども、隣邦の眞相は毫も其の眼孔を透ざらしをり」と続けた後に、「機敏英活の眼光を具せりといふ、日東國人*は、愚かにも淺慮にも、夢の如き眩惑に誘はれて、隣邦観察の大切なる職務を忘れしなり」。「日東國人」は目を覚ませ、である。

*日東國人…日本人

 どうやら安東は「拝西主義の潮勢」に圧倒され、「隣邦観察の大切なる職務を忘れ」る風潮に我慢がならず「支那に渡」ったらしい。それにしても明治中期、すでに「機敏英活の眼光を具せりといふ、日東國人は、愚かにも淺慮にも、夢の如き眩惑に誘はれて」、「拝西主義の潮勢」に翻弄されていたとは。ならば安東の時代から130年ほどが過ぎた21世紀初頭の現在と、さほど変わりはない。日本人にとって、「拝西主義の潮勢」は19,20,21という3世紀を跨いでも根治できそうにない業病なのか。

「拝西主義の潮勢」にもかかわらず、「數年の艱難辛苦を甞め」ながらも「隣邦観察の大切なる職務」に就く「陸軍士官若くは冒険的の少年」もいないわけではなかった。だが、「世に顯れしもの極めて少なし」。ここでいう「少年」は少壮血気の若者という意味に違いない。じつは早くも明治5(1873)年に清国に渡り、兵要地誌作りのために5年を掛け各地を歩いた陸軍中尉や陸軍工兵大尉がいた。彼らの調査の「結果は、納めて參謀本部の寶庫に在り」とのことだが、その後の経緯を考えるに、果たして“宝の持ち腐れ”にはならなかっただろうか。

 安東は当時の「拝西主義の潮勢」を示す傍証として、「橫濱より東方四千五百哩の桑港」と「長崎より僅に四百七十五哩に過ぎざる上海」の在留邦人を比較する。「三千餘」の前者に対し後者は「唯た八百人に上らず」。桑港(サンフランシスコ)在住者は「較や敎育ある人士」だが、上海は「其の大半は賤業の淫婦にあらざれバ、無識の無頼漢を以て充せるか故に、其の當國の事情を本國に通信するが如きは、固より望む可ならざりしなり」。

 さらに地理書をみても「善く支那の事情を記述するもの果して幾何かある」。「支那の事情を記述」した地理書がないわけではないが、それらは「數年以前、もしくは數十年前に、歐米人が著はしたる舊刊の地理書中より翻譯したものに過ぎ」ないし、「精密に確實に支那現時の事情を知るに足るべき著書の如きは、極めて欠乏せるにあらずや」。(なお、「精密」から「あらずや」までに強調の傍点が付されている)。学校における地理教育についても、「總て歐米に偏詳にして、支那、朝鮮、南洋等、重要なる近接隣邦の地誌には極めて冷淡なりしなり」と指摘する。

 我が国では、当時すでに欧米経由の中国認識が幅を利かせていた。これではいけないと、少なくとも安東という1人の明治の若者は義憤に駆られたに違いない。

中国が復活できなければ、日本が領有してしまえばよい

「未來の日本國民は、その天與の海洋を利用し宇内の大勢に投じて、南北東西に商業線、航海線を擴張する所の勇敢なる遠征的國民たらんことを熱望」しつつ、安東は日清両国を比較する。

「八十五萬方里の沃土を擁し、四億三千萬の民衆を収むる」大清帝国と、「蕞薾たる二萬四千方里の一孤島にして、充すに擾々四千萬の多頭を以てせる日東の海國」を比較して、「其の人口に於て我は彼の十分の一に居り、面積に於ては彼れ我れの三十倍を超えたり」。次いで「一は眠れる象の如く、一は覺めたる小猴の如し、一は病める老爺にして、一は潑剌たる少年なり」との比較を「局外漢の妄評」だと退けた後、「吾人は此の大帝國の決して言ふが如き絶望の老體にあらざるを信ずる」とした。

「東邦開明の先進者を以て自任せる日東國人」にして「義俠なる櫻花國の健兒」ならば、「彼の病衰せりといふ老爺を負ふて起ち、老爺はまた斯の多望可愛なる美少年の肩に倚て導かれん、もし夫れ不幸にして老爺の臥して、また起たさるが如き、危機に遭遇することあらば、我れ代つて其の相續權を占握せんも、又好がらずや」。

 この考えに従うなら、大清帝国は一般に伝えられるほどには「絶望の老體」ではない。「義俠なる櫻花國の健兒」に導かれれば、亡国の淵から復活する可能性はある。だが、万一それが不可能なら、清国の相続権は日本が持つ。だから日本が領有しても問題はなかろう。こういう過激な主張が、日清戦争前夜の「義俠なる櫻花國の健兒」の心に芽生えていたわけだ。因みに福沢の脱亜論が発表されたのは、6年前の明治18(1885)年だった。

中国を日本の尺度で量ってはならない

 安東の興味は先ず港に向った。

「細長くして幅の狹く我が日本の地にあつては、海港と河港とを區別するの必要を見ずと雖も、廣濶の巨流に富める支那にあつては、此の區別をなさゞるべからず」。じつは「國人の觀念には、港と海とは殆ど分離すべからさるものと信せる」。だが「支那の大切なる港は、海岸にあらずして、却て皆河岸にあるこそ不思議なれ」。「目下支那の通商碼頭は二十一個所」あるが、その大部分は海ではなく河川に面している。だから、「素より海岸に直接せる、我が國神戸、横濱、長崎等の海港と同一視すべからざるものあり」。

 次いで河川。

「支那の河流は、軍艦滊船等の交通自在にして、其の廣大なること恰も我が國瀬戸内海の如き利便を有するものなり」。冬季から早春にかけて「結氷に閉ぢられて、艦船の交通を妨阻し、貿易を中止」せざるをえない河川もある。国際公法では沿岸から3哩以遠はその国の主権外だから、長江を「遡る他國の軍艦は、支那帝國主權外の地を航行するもの」との主張すらみられるほど。ともかく日本の尺度を超える。ともかくも「大陸の風物自ら一小群島の景状と異なる所あるを想ふべし」。

 おそらく安東は、「一小群島」の基準で、人口規模で10倍、国土面積では30倍の広さを持つ「大陸の風物」を推し量ることは非現実的であり、誤解を招き、誤った判断に結びつきかねず危険であると言いたかったのだろう。この辺りの考えは、現在にも十分通じる。

 たとえば「新疆、蒙古、西蔵等の屬部はもとより、本部十九省中に在ても、貴州、湖南、甘肅、河南、四川、雲南、廣西などの諸省中には、清政府主權の布及せざる地方甚だ多く、一種剽悍なる蠻族棲居して、旅客及び附近地方の領民を苦しむる者」がある。「支那政府は此等の蠻族を統御する」ための方策をとっているが、「素より化外の蠻夷なれは、中央政府の權威を怖れず、租税を納むる事なく、一種自治體にして、(中略)風俗言語等も通常の支那人と異なり。其地方を通行する隊商等は、彼等に賄賂を贈りて歡心を求め、僅に暴害を免れ居る有様」だ。つまり清国では「内治未だ統一せざる」のである。

 いわば「清政府主權の布及せざる地方甚だ多く」、それらの地方には「蠻族棲居し」、彼らは「中央政府の權威を怖れず」、「一種自治體」を構成しているゆえに、清国を名乗ってはいるが統一した国家ではない。清国は統一国家にあらずとは、鋭い指摘だ。

 だが「特に驚く可きは」と記したうえで、「斯かる蠻野の近傍にも、數名の歐羅巴人、清装辮髪にて入り込み、宣敎に從事し居ることにて、白人の大膽なる、又熱心堅忍なる、眞に驚歎の外なしと云ふ」と続ける。確かに「眞に驚歎の外なし」と舌を巻くしかない列強のインテリジェンスである。こと清国進出に関する限り、日本は後発国、つまり列強諸国に較べ大いに出遅れていた。フィールドに身を置いてのリアルな日常を把握する努力に欠けていたのだ。

「一衣帯水・同文同種」はウソッパチ

 安東の観察は日常生活に転じた。

 先ず衣服。

「我國人の觀念に支那人とさへ言へば、唯醜汚なる粗服の装貌を有する如く想ふは、蓋し橫濱神戸等に於ける下等の出稼人のみを見慣れ居る故なる可し」。じつは「上等社會の服装は優に威重ありて日本服にも勝りて見ゆ」。だから「黒紋付の羽織の仙台平の袴にても着したる最上の日本服ならばよけれども、雙子織や浴衣等に木綿の兵兒帯などしめて、上海若くは香港等に上陸せば、耻づかしくて通行出來ぬ心地すべし」。だから日本人も洋服を着るべきだが、「但だ最良の日本服は洋服に勝りて支那人の尊敬を受くるなり」と。

 ここで興味深いのは、「橫濱神戸等に於ける下等の出稼人」が日本人の中国人観に与えた影響であり、そうした見方は誤りであると指摘している点だろう。どうやら当時既に、少なからざる「下等の出稼人」が海を渡って「橫濱神戸等」に出稼ぎにやって来ていたという事実は記憶しておいてよかろう。現在の横濱や神戸にみられる中華街は、「下等の出稼人」によって始まったということになりそうだ。

 次いで食事。

「支那人の食物は一般に鳥獸の肉を主とし、我國と同じく米を以て定食とす」る。内容を見ると上には上が、下には下がある。「街頭の車夫の如き勞働者は(粗末極まりないものを常食としているが)、なほ能く稼ぎ、且つ貯蓄する者あり。之を我國下等社會の職人等が、宵越しの錢は遣はずなといひて、金錢を濫消する者に比せば、彼の忍耐、節儉、勤勉の能力と習慣とに富み、處世に術に巧者なるは、頗る感心すべきものあるなり」。彼らの「忍耐、節儉、勤勉の能力と習慣とに富み、處世に術に巧者なる」振る舞いを指摘している。

 とはいうものの「實に支那人は料理に巧者なれども、一般に不潔汚穢なるには閉口なり、彼地に遊びてまづ此一點を尤も忍び難しとす」。かくて「要するに支那人の飲食、家屋及び其習慣は大いに我と其趣を異にせるものにして、寧ろ泰西風に近きものあり」。つまり一衣帯水・同文同種は明々白々のウソッパチだった。

日清貿易が低調な原因は「人材不足」

 関心は黄河、次いで天然資源に転じる。

 漢民族にとって母なる大河でもあり、人口が多く、農業が盛んな中国の中心を流れる黄河を、「海より上流二百五十里を越ゆれば、全く航行する能はず、目下に於ては、該河は全く世界に於て無用の長物とす」と酷評した。それというのも黄河の河道は泥に塞がれ、下流の大平原では河水が氾濫して大被害を及ぼすことは多いからである。「支那政府の浪費」が黄河の河道改修工事を妨げ、洪水を防げない。こうして、漢族の母なる大河である黄河は永遠に「人民不幸」をもたらす「無用の長物」となり果て、国家的不幸の根源になる。

 そこで「今や歐米の起業家、工學博士等は百難を排して内地に入り、黃河の河道を測量して、築堤の設計を遂げ、清政府に勸告して、其の斷行を迫りつヽあり。果たして成らんか、數千年の大患、茲に忽ち排除し去て、斯の東亞の大富源に永く洪水の患害を絶たん、亦可ならす哉」。だが、「歐米の起業家、工學博士等」は「數千年の大患」を取り除いて「人民不幸の永久滅せざる根源」を根絶しようというわけではない。やはり「東亞の大富源」を掠め取ろうという魂胆を持っているはずだ。ここでも日本は出遅れている。

 次いで「外國起業家等の垂涎羨々措く能わざる所」の「其の無量の鑛脈」である。

「深く内地に入り未開の山川を跋渉して精確の調査を遂げたる専門家及び宣教師等の報告に據るも。支那は到る處に石炭鑛を有し、鐵鑛を有し、又金銀の貴金屬を富める事明かなり」。ことに石炭などは「東洋市場は愚か、全世界の炭業を動かすに至る」可能性は大だが、「現今支那の鑛業は極めて幼稚にして未だ其の緒にすら就く能わざる」レベルだ。そこで「支那に在る歐米の起業家等相競て政府に勸告し、併せて其の特許を得て一攫千金せんとせり」。

 だから「日本の鑛業家も何ぞ奮て一葦帶水を渡り、斯の大陸の富源を開拓」すべきであり、「支那人は文明的學理の技術に暗きか故に、大學等にて專門の敎育を受けたる、工學士理學士等續々來りて設計創業する所あらば、自他の便益少なからざる可し」。清国政権の実力者である李鴻章にしても張之洞にしても、日本からの「遊歷者等に向ひ、此の事を相談したりと云ふ」。だが、それが実現しない。それというのも「我外交官中には敏腕治手を有する人に乏し」く、国益実現という本来の業務に関心を払わないからである。どうやら当時から「我外交官」の行動には問題が多かったらしい。

 当時、低調だった日清貿易の原因を、安東は「適當の人物を得ざるに在り」とした。だから日本の若者を中国商店で修業させ、「三四年間、言語習慣及び取引の實地に習熟せしめて、後商業に從事せしめれば好からんと云う人」がいる。これは良策とは思うが、じつは「支那人は秘密を重んじ、團結を貴ぶ人民なれば、外國人を自店に入れて商務を練修せしむるは同業者に對し、又自家營業の利益を保護する上に於て、決して爲す事を欲せさるなり。故に良策は遂に行ひ難きなり」と結論づける。その実例に「西京鳩居堂の手代某」を店に入れて筆造りの秘法を学ばせたことで、「日本人に中華の秘法を授けたりとて。仲間の攻擊を受くる事甚だしく、非常に後悔し居る」店があったことを挙げている。

 彼らの商法を「勤勉、節儉、忍耐にして、能く其業を永續し、同業者の一致團結心に富めるは、支那人の尤も他邦人に優出したる特風なり」と説く安東は、目標達成までは断固としてやり抜く彼らのビジネス作法に感服するのであった

日本人が中国でビジネスチャンスを生かせないワケ

 安東は天然資源超大国で「大商業國なる支那を一葦帶水の西隣に擁して、商業、航海及び技術を以て東洋に雄飛せんとする、日東海國民の覺悟ハ、夫れ果して如何」と、清国との貿易を盛んにすべきと説く。だが実態は余り芳しくはない。

 たとえば天津は「支那の一大貿易港なれども、我商民の在留する者極めて少なく、日本人の直接に從事する商業ハ微々として振はず」。外国人居留民は300人以上。ドイツとイギリスほぼ同数で総計260人前後。ロシア人は15人ほど、フランス人が5人ほどで日本人は40人前後。だが「其中官吏を除き、其餘は多く洋人又は支那人の外妾にして、眞に商業家といふべきは幾許もあることなし」。

 ところで同じ時期の上海在住日本人の実態を安東は、800人に届かない日本人の「大半は賤業の淫婦にあらざれバ、無識の無頼漢」だとする。「無識の無頼漢」というが、おそらく女衒であり、ヒモだろう。ということは日本人の海外進出の先陣を切ったのは、天津の「洋人又は支那人の外妾」であり上海の「賤業の淫婦」だったのか。

 天津における日本企業だが、「是まで我國人の商店を天津に開きて失敗せし重なるものを擧ぐれバ、東亞洋行、大倉組、久次米商社等にて其他は屈指するに暇あらず」。ということは、明治中期までの日本企業の天津進出は余り捗々しくはなかったことになる。なぜビジネスチャンスを生かせなかったのか。天津は「商業上の組織已に整頓し、取引は一に信用に在るを以て老舗に非されバ世人之を顧みるもの無し」。つまり老舗が互いに信用で結ばれて居て、新参者、しかも外国人の新参者は容易に彼らのネットワークに食い込めないからだった。

 こういったビジネス環境であるにもかかわらず、「我國人は新に來つて利益を搏取せんとし、一時に目的を達する能はざれバ忽ち失望し、而して出張員は氣候の激烈なるに苦しんで急に日本に歸らんとし、營業の維持すべからざるを報告し、遂に閉店を爲すに至る」。そのうえ、「多く出張員と本店との意見、相背馳するに基くものヽ如し」。だから「北支那に於て商業を營まんとすれば、資本主又は會社の重なる役員が先づ己の信用する番頭を伴ふて渡來し、自ら實地の事情を見聞し、然る後、日本に歸り、此地に残せし番頭と氣脈を通じ商機を誤まらざるにありと」。

 どうやら日本企業にとって中国ビジネス実態は、明治時代も21世紀初頭の現在も大差ないらしい。

127年前に「中国の脅威」を予見した明治の若者

「歐洲の識者」の著作と思われる『亞細亞大勢論』を援用する形で、自らが目にした清国商人の生態について、安東は次のように見做した。

――商売における用意周到さにおいてはユダヤ人を除いたら、世界に彼らほどの力を持っている者はいない。目下、清国では製造業は未発達だが、全国各地に工場を建設し驚くほど人件費の安い労働者を雇用したなら、ヨーロッパの富は最終的には根こそぎ掠め取られてしまうだろう。

 清国とヨーロッパの貿易を見ると、ヨーロッパが圧倒されているのが実態だ。ヨーロッパから輸送された商品が清国の港に陸揚げされて後、その全ては清国商人の手に委ねられる。それゆえ儲けの幅や分配に関しては、彼らの思うがまま。老獪極まりない商法で知られるイギリス人でさえ一歩譲り、彼らの歓心を買うことに汲々としているありさまである。

 さすがにロシア人だけは長い国境を接するだけに、清国の人情風俗を徹底研究し、準備怠ることなく実力を蓄え南下を進めている。清国にとって最も警戒すべきところだ。

 貿易を専門とする清国商人を観察するに、突発事態にも臨機応変に対応する点が指摘できる。そんな時にも顔色一つ変えるわけでもなく、敢えて儲けは二の次、三の次のように振る舞う。外国商人は彼らの腹の底の底を探り、真意を読み切ることは容易ではない。であればこそウソ八百を並べたてる外国商人であったとしても、商戦において彼らを圧倒することは極めて難しい。ともかく彼らの間では情報の交換と共有が徹底し、相互に助け合い、売買は活発化し、外国商人を押さえ、貿易を独占し、かくして富国の道を歩むことは間違いないだろう。

 目下のところ、清国の制度や法令は腐敗の極に達してはいるが、その実力は確固としている。だから有能な指導者が決起し清国全土に眠る天然資源を活用し、政治的・社会的欠陥を改革し、全人民を挙げて立ち上がらせることが出来るなら、望むものは何でも手に入るだろう。そうなった時、清国は世界にとっての脅威以外のなにものでもない――

 あの時代に、どのような手段で旅行資金を工面したのか。それにしても日清戦争前夜の清国を歩いた20歳前の若者にしては、安東の考えは余りにも“老成”している。安東は清国社会に対し並外れた分析能力を備えていたのか。それとも誰か専門家の偽名だったのか。

「病痾の快癒を待て、朝鮮、西伯利亞*を經て再び北清に入り、更に見聞する所を擴め」と語る安東だが、病気から回復し「朝鮮、西伯利亞を經て再び北清に入」ったのか。その後の消息は全く不明である。*西伯利亞…シベリア

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