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時代を見通す日本の基礎情報

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現地取材で見た韓国の過ちと憎悪の念「ベトナム大虐殺」

ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)は多くの国々が関わった国際的な戦争だった。社会主義を掲げた北ベトナムには中・ソ・北朝鮮が側面支援を主に行い、南ベトナムにはアメリカを筆頭に韓国、台湾、スペイン、東南アジア条約機構(SEATO)の国々が支援した。
 1964年8月、ベトナム北部のトンキン湾で北ベトナム軍の哨戒艇が米軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射したとされる「トンキン湾事件」が起きる。これを機に、アメリカは本格的な軍事介入を始め、翌65年2月に北爆を開始。同時期に韓国軍の派兵も始まった。
 朝鮮戦争で壊滅的な被害を受けた韓国。休戦の53年にはアジア最貧国グループの一つとなった。当時の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領は、日本が朝鮮戦争で高度経済成長のきっかけをつかんだことをよく知っていた。韓国を豊かな国に変えるべく、ベトナム戦争を経済発展の絶好の機会ととらえ、韓国軍戦闘部隊のベトナム派兵を決定する。
1976年、崔太敏氏(右)が主導する団体を訪問し、会話を交わす朴正煕大統領(当時・左)と朴槿恵氏(共同)
1976年、崔太敏氏(右)が主導する団体を訪問し、会話を交わす朴正煕大統領(当時・左)と朴槿恵氏(共同)

韓国の派兵は64年9月に医療班やテコンドー教官などの非戦闘先遣部隊が送り込まれ、翌65年2月、工兵部隊を中心に2000人を派遣。戦況が悪化していくにつれ、同年10月には1万8500人あまりの戦闘部隊を本格的に投入した。その数や、韓国軍が撤退する73年3月までに延べ32万5517人にのぼり、アメリカに次ぐ大量派兵となった。
 韓国軍のベトナム参戦について、ノンフィクション作家の野村進氏が『コリアン世界の旅』(講談社、1997年)の中で、韓国軍元上等兵の発言を次のように書き綴っている。
 「韓国がベトナム戦争に参戦したのは、世界の自由主義を守るためだとか言ってましたけど、本当はカネのためなんですよ。カネ目当てなんだから、早い話がアメリカの“傭兵”ということですよね」
 「カネ」のためにベトナム戦争に参戦した韓国軍。彼らはベトナムの地で歴史上ぬぐい去ることのできない多くの恥辱を残すこととなる。韓国軍戦闘部隊の多くは、ベトナム中部のニントゥアン省からダナン市にかけての海岸沿いを走る国道1号線の主要都市に駐屯し、至るところで罪もない民間人の虐殺を繰り返した。
1990年代後半に、ホーチミン大大学院でベトナム現代史を勉強していたク・スジョン氏。彼女がベトナム政府局の資料を入手し、韓国の左派紙「ハンギョレ」に提供した情報によると、「韓国兵はきれいに殺して、きれいに燃やし、きれいに破壊するというスローガンのもと、掃討作戦を繰り広げて、民間人を次々と無差別殺戮していった」(『ハンギョレ21』1999年5月 第256号)。
 また、韓国軍の虐殺地が点在しているベトナム中部のフーイエン省で『フーイエン省の歴史書』(2013年12月発行)の作成のために聞き取り調査を行い、編纂(へんさん)したフーイエン新聞社のファン・タン・ビン編集長(54歳=09年9月当時)は次のように話す。
 「韓国兵は村のすべてを焼き払い、無抵抗の子供や妊婦も容赦なく殺害し、年ごろの娘においては輪姦したあとに女性器を銃剣でかき回し、射殺するという暴挙もあった」。そしてついには、「韓国兵に出あうことは死ぬことだ」と、ベトナム人に言わしめたという。
韓国軍のベトナム戦争参戦によって起きた問題は、「民間人虐殺行為」だけではなく、「ライダイハン」問題がある。ライダイハンとは、「ライ」がベトナム語で混血を表し、「ダイハン(大韓)」は韓国を意味する蔑称である。ベトナム戦争時にできたライダイハンの数は、最少1500人(朝日新聞1995年5月2日付)から最大3万人(釜山日報2004年9月18日)と推計されている。
 ベトナム戦争時、中部ビンディン省にできた韓国軍施設でウエートレスをしていたヴォー・ティ・マイ・ディンさん(59歳=09年9月当時)は、19歳のころに施設内の食堂で輪姦され、誰の子だかわからないライダイハンの息子、ヴォー・スアン・ヴィンさん(39歳=同)を身ごもった。
 ヴィンさんは母を前にして寂しそうに話す。
 「戦後、アメラジアン(アメリカ人とアジア人のハーフ)同様、『敵国』との間の子だと差別され、辛かったことを覚えています。小学校のころには、『この学校に敵がいると規律が乱れる』と罵られ、帰り道、同級生に石を投げられたこともありました」
 ヴィンさんは戦後40年以上経った今でもライダイハンというだけで差別を受けて定職に就くことができず、日雇いでトラックの積み荷を降ろす仕事をしている(2015年6月当時)。
 では、ベトナムの地で数々の過ちを犯した韓国は、戦後、どのような補償をしているのだろうか。
 2000年代に入り、ようやく韓国の市民団体らが、韓国軍による民間人虐殺やライダイハンに対する謝罪の意味合いを込めて、韓国軍が駐屯地を中心に「ベトナム平和医療連帯」が無料診療を行い始め、虐殺があったとされる場所の「憎悪碑」や「慰霊碑」などの訪問を始めた。
 また、03年1月には韓国左派紙のハンギョレ新聞社が資金を募り、フーイエン省ドンホア県に8000平方メートルの土地を買い、10万米ドル(およそ1100万円)をかけて、韓越平和公園を造景した。しかし現在、公園は利用者もなく放置され、ゴミが散らばり、廃園となっている。
韓越平和公園の近くに住み、カフェを営む50代の女性は、「公園はボロボロで汚いし、使い物にならない。手入れされていない木が生い茂っているので、たまに若いカップルが木陰で話しているくらいです。韓国軍が虐殺事件を起こした地域に公園を造るなら話もわかりますが、なぜこの場所にあんな大きな公園を造ったのかが理解できません」と話す。

廃園になっている韓越平和公園=2016年9月、フーイエン省(村山康文氏撮影)
廃園になっている韓越平和公園=2016年9月、フーイエン省(村山康文氏撮影)

 韓越平和公園造景後、同地域に韓越友好病院(05年9月)を設立。15年3月には韓国軍の虐殺が行われたフーイエン省タイホア県内に、韓国の民間支援で小学校を創立した。
 さらに16年春、「平和の少女像(慰安婦像)」を作成した彫刻家のキム・ソギョン、キム・ウンソン夫妻が、ベトナム戦争での韓国軍による民間人虐殺を謝罪する意味で「ベトナム・ピエタ像」を制作。16年中に韓国の済州(チェジュ)江汀(カンジョン)村とベトナムのクアンガイ省ビンソン県に建立される予定だった。ベトナム戦争終結から42年目の17年4月30日、韓国の済州江汀村でお披露目されたが、ベトナムでは未だ世に出ていない
 また、16年10月11日に韓越平和財団が、ダナン市にある中部最大のダナン博物館に「ベトナム・ピエタ像」を贈呈。さらに同年12月3日、クアンガイ省ビンソン県での韓国軍による民間人虐殺の生き残り、ドアン・ギアさん(50歳=16年9月当時)の自宅訪問の際、「ピエタ像」を持参した
 しかし、「ピエタ像」は、ダナン博物館では日が当たることもなく地下倉庫に眠り、ギアさんはクアンガイ省庁から受け取ることを拒否するように言われているため、受け取ることができなかった。
 「韓越の関係は今、良くなっています。私らがピエタ像を受け取るということは、今さら過去を掘り返してまで、時代に逆行することはないということでしょう」(ギアさん)
 
 韓越問題に詳しいベトナムのジャーナリスト、チャン・クアン・ティさん(39歳=同)。フーイエン省で生まれ、祖父母から韓国軍による民間人虐殺の話を聞いて育った。

右肩上がりの今のベトナム経済にとって、韓国は切っても切り離せないでしょう。しかし、だからと言って過去の韓国軍による民間人虐殺やライダイハン問題に蓋をして、なかったことにするというのは筋違いです。ベトナム政府も目先の『カネ』ばかりを追うのではなく、じっくりと韓国政府と向き合い解決の糸口を見つけるべきです」
 韓国の政府レベルでは、98年に当時の金大中(キム・デジュン)大統領が訪越した際に「不本意ながら、過去の一時期、ベトナム国民に苦痛を与えたことを遺憾に思う」と謝罪するも、保守派ハンナラ党(現セリヌ党)副総裁だった朴正煕の娘、朴槿恵(パク・クネ)氏が、金大中の発言に対し、「大統領の歴史認識に不安を抱く。軽はずみな発言は参戦者会の名誉を著しく傷つけた」と強く非難した。
 13年2月、朴槿恵氏が大統領に就任する。9月に初訪越し、ベトナムのチュオン・タン・サン国家主席と会談したが、ベトナムに向けた謝罪の言葉は一切なかった。また17年11月に文在寅(ムン・ジェイン)大統領も初訪越し、チャン・ダイ・クアン国家主席と会談。しかし、そこでも謝罪の言葉はなく、革新派としての姿勢を後退させた。
 「平和の少女像(慰安婦像)」は、ソウル特別市の在大韓民国日本国大使館前(2011年12月設置)を始め、釜山市の在釜山日本国総領事館前(16年12月設置)、加えて海外のカナダ・トロント市(15年11月設置)やアメリカ・サンフランシスコ市(17年9月設置)などに次々と建立している。
 「思わずブロンズ像建立が趣味なのですか?」と問いただしたくなるほど自己主張する韓国の行動。ベトナム戦争時、被害に遭遇したが奇跡的に生き延びた人らは、少なくとも押し付けがましい「ハコモノ設置」や「ブロンズ像建立」よりも、韓国国家の「正しい判断」を求めている。

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