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「独裁」を強める…習近平政権さらに中国・李克強前首相「急死」日本経済が直面する厳しい現実

10月27日、中国の李克強前首相(国務院総理)が死去した。引退直後だったことや、独裁色を強める習近平政権に対するある種のアンチテーゼとして、引退後も引き続き高い人気を保っていたこともあり、死去のショックは大きい。すでに第一線を退いていた人物とはいえ、中国の政治や経済に与える影響は大きいだろう。

胡錦濤の一番信頼できる部下

李克強氏は、習近平氏と同じく2007年の党大会で政治局常務委員(中国共産党の最高幹部)入りし、習近平政権の成立後は党内序列ナンバー2となり、首相を長く務めた。

中国共産党の幹部としては珍しく、西側の人物と同じ文脈で議論ができる数少ない人材の一人と言われ、各国からの人気は高かった。

内外の人脈の広さや実務能力の高さを買われ、着実に首相の仕事をこなしてきたが、もともと習氏とは対立派閥に属していたことや、オープンな人柄は独裁色を強める習氏にとって微妙な存在となっていた。

習近平国家主席(左)とは微妙な関係にあった李克強首相/photo by gettyimages
習近平国家主席(左)とは微妙な関係にあった李克強首相/photo by gettyimages© 現代ビジネス

中国共産党における政治力学を分析するにあたっては、派閥の力関係について把握しておく必要がある。習近平政権成立以前は、胡錦濤氏が序列ナンバーワンで国家主席を務めていた。

胡氏は清華大学水利工程部(日本の工学部に相当)出身の典型的な共産党テクノクラートで、共産主義青年団(共青団)のリーダーとして頭角を現した。李克強氏も同じく共青団出身であり、党のエリート官僚として実績を上げ、胡氏にとって最も信頼できる部下の一人となった。共青団出身者の派閥のことを中国政治の世界では団派と呼ぶ。

一方、共産党内には革命第一世代を担った党幹部の子弟らで構成される、太子党と呼ばれるグループがある。太子党は明確な派閥を形成しているわけではないが、人的な関係が密接であることから、党内では相応の権力基盤を保っている。

しかしながら習氏は、父親が文化大革命で迫害を受けていたこともあり、青年時代は地方に移住させられる(いわゆる下放)という辛い経験を持っている。

このため習氏は下放時代を含め、個人的に信頼できる人物を中心に派閥を形成しており、太子党のみが権力基盤になっているわけではない。

もうひとつの有力な派閥が、江沢民元国家主席を中心とした上海閥と呼ばれるグループである。上海閥は、鉄道省などの経済利権と深く関わっており、国営企業が生み出す莫大な資金を背景に、共産党のあらゆるところに影響力を行使していた。

胡政権末期、次期トップを誰にするのかをめぐって激しい権力闘争を演じたのが上海閥と団派である。党のエリート官僚集団である故氏ら団派は、上海閥による国営企業の経済力を通じた支配を快く思っておらず、次期政権では李克強氏をトップに据え、経済利権の排除を狙っていた。

これに危機感を覚えた江氏は、直接的には自身のグループではないものの、実力者として台頭していた習近平氏を強く推し、結果として習氏が共産党トップに立つことになった。つまり、初期の習近平政権は、江沢民氏を後ろ盾とした政権であり、団派は譲歩を強いられて李氏はナンバー2の首相ポストを得ることになった。

この図式を単純化すると、習氏とその後ろ盾となっている上海閥があり、団派が対立しているという形になり、実際、江氏もそうした形での院政を望んでいたが、事はそう単純には進まなかった。

李氏をトップに据えられなかった胡氏は、引退直前に最後の権力を行使し、江氏を中南海(共産党の中枢施設が集まる特別なエリア)から追い出したのだが、この流れにうまく乗ったのが習氏と考えて良い。

人気を維持する中での急死

習氏は江氏が中南海を去ったことをきっかけに、自身の後ろ盾となっていた江氏に近い人物を次々と粛清し、自らの権力基盤を強固なものにしていった。上海閥の排除に成功した習氏にとって、団派は徐々に邪魔な存在となってきた。

上海閥の牙城と言われた鉄道省解体においては、習氏と李氏は互いに協力する関係だったが、一連の上海閥排除が終了すると、習氏は権力の矛先を李氏ら団派に強く向けるようになる。

団派は、政府組織である国務院を権力基盤としており、李氏を中心に経済政策のキーマンが多かった。

当初、中国は人民元の自由化や規制緩和など、自由主義的な経済政策を進めていたが、中国経済が失速したことや米国との対立が深刻化したことで、自由化の弊害が指摘されるようになってきた。習氏はこれをチャンスと捉え、一連の経済政策の失敗を団派の責任であるとし、李氏の影響力を弱めることに成功した。

派閥の後継者として有力視された人物が次々と権力中枢から追い出され、李氏は何とか首相ポストを維持したものの、最後はほとんど身動きが取れない状態での引退となった。これが2期目の習近平政権の顛末である。

異例の3期続投となった現政権では、常務委員のほとんどが習氏に近い人物で占められ、より独裁色が強まった。当然のことながら、習氏の独裁に対して党内では不満が高まっており、あちこちで有形無形の批判が出ている。

結果として、あまり力を発揮せず引退した李氏への人気が高まっており、今でも李氏はあちこちから引っ張りだこと言われる。

当然こうした動きについて習氏は快く思っておらず、権力闘争が再開されるのではないかとの噂が取り沙汰されていた。こうした中での李氏の急死であり、やはり今後の政局に与える影響は大きいと言わざるを得ない。

文革時代の動きによく似ている

現在の習氏は、独裁体制をさらに強化する動きに出ている。一連の習氏の行動は1960年代の後半から70年代にかけて実施された毛沢東氏による文革大革命(文革)に似ており、実際、中国国内では「文革の再来」と言われている。

文化大革命は、中国の資本主義化や近代化を進めようとする改革派に対し劣勢となった毛沢東氏が、一気に反撃に出て、資本主義的、民主主義的な価値観を持つ人物を次々と粛清し、最終的には毛氏の絶対的な独裁権を確立した一連の権力闘争のことを指す。

文革の最中には多くの人物が投獄されたり、拷問されるなど、おびただしい数の犠牲者を出した。また文革と前後して人民解放軍を掌握していた林彪氏が死亡するという事件も発生し、世界に衝撃を与えた。

林氏は当初、毛氏後継の最有力候補とされており、毛氏への絶対忠誠を誓っていた。だが、軍をバックに勢力を拡大する林氏を毛氏が警戒し、身の危険を感じた林氏がクーデターを画策したものの失敗。飛行機を使ってモンゴルに逃亡中、墜落死するという劇的な展開だった。

中国では7月に秦剛前外相が解任され、しばらく動静が途絶えていた李尚福国防相も10月に正式に解任されるなど、重要閣僚が次々とポストを失う異例の事態となっている。日本国内では、中国の内政をめぐって大騒ぎとなっているが、これが文革であると考えればそれほど驚くような話ではない。

中国の場合、西側諸外国と比較して大臣の格は低く、国家の最高幹部とはいえない。文革の時代には最高権力者である常務委員クラスの粛清が相次いでいたことを考えると、現時点においては体制を揺るがすほどの政変とは言えないだろう。

しかしながら、党内の重要人物や軍幹部が次々更迭されている状況は、まさに文革時代における動きとよく似ている。習氏が毛氏にならって文革をやり切った場合、中国経済はさらに落ち込み、一方で共産党の独裁体制だけが強化されるという日本にとっては望ましくない結果となるだろう。

一方で、改革派が実権を握ることになれば、逆に習氏が失脚し、再び資本主義的色彩の濃い改革開放路線が復活する可能性もあるが、今のところ習氏の権力基盤に大きな変化はない。少なくとも日本にとっては、中国が友好的になり、良きビジネスパートナーになるという期待は抱かない方が良いだろう。

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