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祇園祭の神は「地震神」だった…社建立地点と断層の“奇妙な一致”

祇園社(八坂神社)と広峯神社…牛頭天王ゆかりの神社と断層の関係図

祇園社(八坂神社)と広峯神社…牛頭天王ゆかりの神社と断層の関係図

大阪の天神祭、東京の神田祭と並んで日本三大祭りにも数えられる京都の夏の風物詩、祇園祭が来年、49年ぶりに山鉾(やまほこ)巡行を2日間に分けて開催することが決まった。長い歴史と伝統を誇る祇園祭は、平安時代の貞観(じょうがん)11(869)年、疫病がはやったために防疫の神である「牛頭天王(ごずてんのう)」(スサノオノミコト)を祭り、穢(けがれ)を払う祇園御霊会(ごりょうえ)を行ったのが始まりとされる。

信長が巨大地震を防いでいた!?

 この牛頭天王は「地震神」でもあったと、歴史学者で東京大学史料編纂所名誉教授の保立(ほたて)道久氏が平成24年刊行の近著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で主張している。

 祇園祭が始まったとされる前年の貞観10年夏、播磨地震と京都群発地震が起きている。理科年表によると、《播磨(兵庫)・山城(京都南部)マグニチュード7~。播磨諸郡の官舎・諸定額寺(じょうがくじ)の堂塔ことごとく頽(くず)れ倒れた。京都では垣屋に崩れたものがあった。山崎断層の活動によるものか?》。この地震ののち、牛頭天王が広峯神社(兵庫県姫路市)から京都に迎えられ、祇園祭で祭られるようになったのだ。

 さらに、貞観11年5月に東北・三陸沖で起きたマグニチュード8・4とされる貞観地震では、津波により約千人が溺死。その翌年、一昨年の東日本大震災でも大きな被害を受けた清水峯神社(宮城県名取市)にも、同様に広峯神社から牛頭天王が移されたとの伝承が残っているという

牛頭天王が「地震神」でもあったとする理由について、保立氏は広峯神社と、京都で牛頭天王を祭った祇園社(八坂神社)のそれぞれの場所に着目している。

 広峯神社は、播磨地震の震源となった山崎断層のそばにある。『歴史のなかの大地動乱』で、保立氏は《広峯神社の地は、姫路市の北部、夢前川が山間の峡谷から流れ出る場所の東の丘陵に位置し、山崎断層はその北奥を通っている。この断層から発した地震波が、東南に走って神戸の断層帯にあたり、そこで増幅され、さらに淀川地帯を揺らして京都群発地震を引き起こしたのである》と記している。

 一方の祇園社は、花折(はなおれ)断層が伏見・東山から白河に入ってくる地点に位置している、とする。そして広峯神社、祇園社とこれらの断層との位置から、《播磨・京都群発地震を経験した人々は、地震神が播磨から京都の祇園・白川(白河)まで、地鳴りとともに巨歩を運んだとイメージしたに違いない。(中略)その翌年にはさらに陸奥で巨大な地震が発生したという訳(わけ)である。これまで、祇園会の開創はもっぱら疫病・飢饉(ききん)との関係でのみとらえられていたが、そこに地震との関係があったことは確実である》と導いている。

司馬遼「牛頭大王の御札まき縁起を…」

 牛頭天王と地震との関係については、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』(文春文庫)にも、第1巻にそれを思わせる描写がある。竜馬が黒船来航によって騒然とする江戸で剣術修行に励んでいた当時は、嘉永7(1854)年に甚大な被害をもたらした安政東海・南海地震の直前にあたる。

 《毎日のように微震がつづく。「やがて、どかっとくるんじゃねえか」と、町民どもは、寄るとさわるとそんなうわさをした。(中略)ちかごろ市中で目につくのは、ワイワイ天王やスタスタ坊主の多くなったことであった。一種の門付(かどづけ)芸人である。ワイワイ天王というのは、(中略)牛頭大王のおふだをぱっとまいて縁起をつけるのだ》

ところで、牛頭天王の「神紋」は「五つ木瓜(もっこう)」。織田信長の織田家の家紋と同じだ。これは、牛頭天王を祭神とする津島神社(愛知県津島市)への信仰から、織田家が家紋をとったのだといわれる。

 信長がその栄華の頂点で築いた安土城には総見寺という寺院が建立され、ここに住持した「天王坊」の僧の存在が確認されている。また、信長は幼少時、名古屋にある「天王坊」という寺で勉学したともされており、牛頭天王との縁がことさら深い。

 その信長の存命中、巨大地震は起きていない。ところが、これまでこの連載で述べてきたように、その後の豊臣秀吉や徳川家康の時代になって天正地震や慶長地震などの巨大地震が頻発するのだ。この奇妙な一致を牛頭天王のご加護とみたら、さすがにうがちすぎだろうか

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