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時代を見通す日本の基礎情報

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融和」欺瞞は70年前の“初の南北会談”から 文在寅が敬う独立の英雄はまんまと…

北朝鮮が豊渓里(ブンゲリ)の核実験場を廃棄すると伝えられた4月21日。朝鮮労働党の機関紙、労働新聞に70年前に開かれた「南北朝鮮連席会議」を記念した新切手のイラストが掲載された。真ん中には右の手を高くあげ歓呼する群衆にむけ微笑む若き日の金日成(キム・イルソン)。その前には韓国で独立の英雄として尊敬される金九(キム・グ)が恭しい姿勢で立っている。金九は韓国大統領、文在寅(ムン・ジェイン)が深い敬意を示す人物だ。


 会議が開かれたのは1948年4月19日。南朝鮮(当時)からは41の政党・社会団体を代表する395人が参加したが、その代表的な人物が金九だった。


 韓国ではこの会合を「南北現代史上『初の首脳会談』」(2010年2月3日、韓国紙・ハンギョレ新聞)とたたえる人々がいる。左派と呼ばれる学者や政治家らだ。


 1920年代、中国の上海を拠点に「大韓民国臨時政府」の主席として、日本の要人暗殺を指揮するなど独立運動を繰り広げた金九が韓国に帰還したのは45年11月。朝鮮半島はすでに38度線を境に二つに分かれ、対立の兆しを見せていた。


 その年の12月、モスクワでは戦勝国の米・英・ソ連の外相会議が開かれ、朝鮮の統治体制について協議が行われた。米ソが朝鮮の各政党などと協議して臨時政府を設置、米英中ソで信託統治を行った後、独立国とする方針が決められた。


当時、ソウルでは雨後のタケノコの如く小政党が乱立、離合集散を繰り返しながら主導権争いに明け暮れていた。そのなかで主要な政治勢力を形成したのが中国帰りの金九、米国帰りの李承晩(イ・スンマン=後の韓国初代大統領)、中道左派の呂運亨(ヨ・ウンヒョン)らだったが、彼らはこぞって信託統治に反対した。


 金九は「われわれがなぜ西洋人の靴を履くのか。草履をはこう。洋服も脱ぎすてよう」「わが民族は全滅することはあっても信託統治だけは受け入れてはならない」と主張した。


 これらの運動の中で金九に追随する団体が、彼らの運動に加担しなかった韓国民主党初代党首の宋鎭禹(ソン・ジヌ)を暗殺した。


 一方の北朝鮮では金日成がソ連軍政の支持を背景に地主の土地を没収して住民に分譲し、民族資本家や日本人が所有していた工場を奪い人民の手に委ねるなどして住民の歓心を得て政権基盤をつくっていた。


 近年、ロシア政府が公開した旧ソ連の資料によれば、スターリンは朝鮮半島に進駐してすぐ単独政府をつくるつもりで金日成に指令を出した。


 そのようなソ連・金日成側の思惑を知るはずのない金九は48年2月、南北要人会談を呼び掛ける手紙を金日成に出し、「南北同時に総選挙を実施して統一政府をつくろう」と呼びかけた。南北協力のもと、統一政府の樹立は可能だと信じていたのだ


金九は手紙にこう書いた。「われわれは自分自身の体が半分に分かれることはあっても祖国が分断されるのを見ることはできないではないか」


 しかし、金九の絶叫が金日成の耳に届くはずはなかった。金日成にとって南側は対等な話し相手ではなく、やがては自分たちに従わせるだけの存在としか見ていなかったからだ。


 金九を利用しようとした金日成側は、北朝鮮の政党・団体の名義で南側に「全朝鮮諸政党・社会団体代表者連席会議」を提案した。これが南北融和や統一とはかけ離れた希代の“詐欺劇”だったということは後に判明する。


 70年前の「初の南北会談」から既に統一のビジョンが異なっていた北と南。 4月27日の南北首脳会談直前に労働新聞が突然、金日成と金九の絵を掲載したことには、どんな意味が込められていたのだろうか。   =敬称略   (龍谷大学教授 李相哲)

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