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「卑弥呼の鏡」に新説「画文帯神獣鏡」…邪馬台国の“通説”塗り替える可能性も

ホケノ山古墳から出土した画文帯神獣鏡=平成12年3月

ホケノ山古墳から出土した画文帯神獣鏡=平成12年3月
中国大陸の魏から邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)に贈られた鏡が「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」であるとする説が、近年揺らいでいる。出土した古墳がいずれも卑弥呼の生きた3世紀ではなく、4世紀以降のもののためだ。これに代わって一躍脚光を浴びているのが、奈良県内で近年相次いで出土した3世紀の鏡「画文帯(がもんたい)神獣鏡」で、こちらを魏志倭人伝(ぎしわじんでん)にある「卑弥呼の鏡」とする見方もある。画文帯神獣鏡は中国北部の魏と異なり、南部の江南がルーツともいわれ、専門家は「卑弥呼の時代の大陸交流は魏に限らない。通説より拡大して捉えるべきだ」と提唱。研究成果次第では、邪馬台国・卑弥呼の“定説”を塗り替える可能性もある。

(野崎貴宮)

卑弥呼の時代に合致

 画文帯神獣鏡は、奈良県内では上牧町の久渡(くど)3号墳(3世紀後半)で平成23年に出土した。12年にも、最古級の古墳とされる桜井市のホケノ山古墳(3世紀中ごろ)で出土しており、12年ぶりの発見だった。いずれも中国製で、精緻(せいち)な文様がある。

 古墳から見つかる鏡では、一般に「卑弥呼の鏡」として知られる三角縁神獣鏡が有名だ。しかし、三角縁神獣鏡が出土するのは4世紀以降の古墳ばかり。卑弥呼の時代とは一致しないため、専門家の間でも、その定説を疑問視する意見が大きくなっている。

 これに対し、奈良県で相次ぎ発見された画文帯神獣は卑弥呼の時代に合致するため、3世紀の東アジアの交流を考える重要な資料と注目を集めている。

出土した鏡の真相は…

 久渡3号墳で出土した画文帯神獣鏡は現在、奈良県香芝市の二上山博物館の特別展(11月24日まで)で公開されている。

 大きさは直径14・2センチ、重さ511グラム。詳しくは「画文帯環状乳(かんじょうにゅう)神獣鏡」と呼ばれ、三角縁神獣鏡のように縁(ふち)が三角形ではなく平らなのが特徴だ。

 中央のつまみの部分「鈕(ちゅう)」の周囲には、神仙(しんせん)(仙人)と霊獣(れいじゅう)を表現した文様があり、全体で天上界(てんじょうかい)を表している。中国鏡に詳しい大阪府狭山池博物館の学芸員、小山田宏一さんは「見つかった鏡のタイプは古く、3世紀のものと考えていいだろう。中国鏡に間違いない」と言い切る。

 出土場所の久渡3号墳は、一辺が約15メートルの方墳か前方後方墳と推定され、地方の首長クラスの古墳とみられる。これに対し、別の画文帯神獣鏡が出土したホケノ山古墳は、初期ヤマト政権の都が置かれたとされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)にある前方後円墳だ。全長は約80メートルに及び、大王クラスの墓とされる。

 こちらの鏡は、詳しくは「画文帯同向式(どうこうしき)神獣鏡」と呼ばれる。久渡3号墳の鏡よりも大きく、直径は19・1センチ、重さは773グラム。「石囲い木槨(もっかく)」という丁寧に造られた埋葬施設から見つかった。

 同じ画文帯神獣鏡とはいえ、被葬者のランクに大きな違いがある。纒向遺跡を調査する纒向学研究センターの寺沢薫所長は「ホケノ山古墳の鏡は、王権(大王)が中国との交流の中で入手した鏡。しかし久渡3号墳の鏡は、大王とは違う別の勢力の下で入手された鏡だろう」と推測する。

銅鏡100枚」の記録

 魏志倭人伝によると、景初(けいしょ)3(239)年、邪馬台国の女王、卑弥呼は魏に朝貢し、木綿の布などを献上した。これに対し、魏は金印(きんいん)と銅鏡100枚などを授けたとされる。

 この銅鏡100枚は長らく、これまで古墳から数多く出土してきた三角縁神獣鏡と考えられきた。ところが、卑弥呼の時代にあたる3世紀の古墳の調査が進む中で、その通説を否定する考古学者も多くなってきた。

 奈良県立橿原考古学研究所の調査研究部長として、三角縁神獣鏡が33面出土した黒塚(くろづか)古墳(天理市)やホケノ山古墳などの調査を指揮した同県の広陵町文化財保存センター長、河上邦彦さんは「三角縁神獣鏡は国産鏡で、魏志倭人伝に登場する銅鏡100枚ではない」と断言。逆に、「画文帯神獣鏡は『銅鏡100枚』の候補の鏡のひとつと考えられる」と主張する。

 その理由として河上さんは、三角縁神獣鏡が中国国内で1枚も出土していないことや、日本でも3世紀代の古い古墳からは見つかっていないと指摘。さらに、三角縁神獣鏡にはひび割れ痕跡がたくさんあるなど、低い製造技術も理由に挙げる。

 一方で、ホケノ山古墳の画文帯神獣鏡については、「非常によい作りで、文様の鋳(い)上がりも素晴らしい」と話す。

中国南方系の鏡か

 卑弥呼の生きた3世紀の中国は、魏・呉・蜀(しょく)の「三国志」の時代にあたる。当時、鏡は中国全土で作られていたが、北部の魏だけでなく、南部の揚子江流域でも多くの鏡が製作された。そのため専門家の間でも、画文帯神獣鏡のモチーフは、南部の江南系とする見方がある

京都府京丹後市の太田南2号墳(3世紀中ごろ)でも、中国製の画文帯神獣鏡が出土しており、河上さんは、この京都府北部にヤマト王権の海外交流の港があったとみている。

 さらに中国北部の魏以外にも、倭と密接な関係があった朝鮮半島を経由し、中国南部の呉などと交流した可能性も「否定できない」とみる。

交流史の見直しも

 今年9月に橿原考古学研究所付属博物館が出版した「海でつながる倭と中国」の筆者の一人で、同館学芸課長の今尾文昭さんは、神戸市の夢野丸山(ゆめのまるやま)古墳で見つかった「重列式(じゅうれつしき)神獣鏡」に注目。倭と呉のつながりを指摘する。

 この鏡は、画文帯神獣鏡と同じように神仙と霊獣を表現。江南の浙江(せっこう)省で、227年か228年ごろに作られ、230年代に倭に持ち込まれた可能性があるという。

 これは、卑弥呼が魏に朝貢し、その返礼として銅鏡100枚などを受け取った時期とほぼ一致する。

 重列式神獣鏡の中には、呉の年号が記された鏡もある。倭と呉の間で、正式な外交関係があったという記録はないが、今尾さんは、この鏡を呉の鏡と推定する。

 「魏と呉は224年以降、断交状態になる。その場合は陸路によるルートは難しいが、倭との間には海を使った直接ルートがあったのではないか」と今尾さん。「今後、倭と呉の交流についても、よく考えていかなければならない」と問題提起する

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