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時代を見通す日本の基礎情報

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家康も恐れた秀吉下命の見張り役・佐野信吉 山城降りて佐野発展の礎に

国史跡指定が答申された唐沢山城跡(栃木県佐野市富士町、栃本町)の南城跡に立つと、南側に開けた関東平野が眼下に広がる。視線の果てに水色の薄い層があり、その中に、よく言ってマッチ棒程度の何かが見えるのだが、東京スカイツリーらしい。

 空気が澄んでいた昔は江戸の町がもう少し良く見渡せた。江戸で大火があったとき、佐野信吉はすぐさま江戸城に駆けつけた。「いざ鎌倉」の忠誠心を示したつもりだが、「随分、早かったな」と聞いた徳川家康は、あまりいい気分ではなかった。

 信吉は豊臣秀吉に重用された富田家の出身。秀吉の意向で佐野氏に婿入りした。秀吉死後は家康に接近していたが、関東に閉じ込めた上に山の上からの見張り役まで付けていた秀吉の意図を思うと、家康はぞっとした。「山城を下りたらどうだ」

 逸話の真実性はともかく、信吉は唐沢山城から平地の佐野城への移転を始める。佐野市教委生涯学習課の出居博さんは「関ケ原へ向かう徳川秀忠も城に泊まるはずが、城が工事中ということで大庵寺(同市犬伏下町)に泊まったといい、興味深い」。

 城の移転に関し、出居さんは「戦って権力を維持、拡大する戦国時代から、街道沿いに城下町を築き、経済、流通を統治して地域を支配する必要があった近世への流れという時代背景を考えるべきだ」と話す。秀吉のそばで中央の政治を見てきた信吉が、戦闘での守りやすさを念頭にした関東の山城に入り、「これからの時代はオレ流で」と意気込んだ可能性もある。

佐野市中心部の社寺はこの頃、周辺部から移転。町割はそのまま現在の市街地につながる。佐野繁栄の基礎となった。小山評定では家康の意向で会場設営、諸将の宿泊施設建設など実務面での功績もある。

 ■佐野信吉(さの・のぶよし)1566~1622年。富田信高の弟で、元は富田信種。天徳寺宝衍(ほうえん)=佐野房綱(ふさつな)=の養子となって佐野氏を継ぐ。関ケ原の戦い後は佐野3万9千石を安堵(あんど)されたが、後に所領没収。

 ■小山評定 1600(慶長5)年7月、下野国小山(現在の栃木県小山市)で開かれた軍議。豊臣政権の大老・徳川家康が諸大名を率いて上杉景勝を討伐する目的で会津に向かっていたが、石田三成挙兵の知らせが入る。小山で諸将が集まり、軍勢に西に返して三成を討つことを決め、この軍勢が関ケ原での東軍となる

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