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談話は「問題の適切な処理に不利益な、地域の安定を損なう言動をやめるよう関係国に促す」と強調した。
日米豪の外相は4日にインドネシア・バリ島で戦略対話を開催。共同声明は中国の動きを念頭に「東シナ海で現状を変更し得る威圧的、一方的な、いかなる行動にも反対する」とした。
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韓国の朴槿恵大統領は9月7日から5日間、ベトナムを訪れた。滞在中、大統領の口からは、ベトナム戦争中に南ベトナムに派兵された、約30万人の韓国兵が犯した婦女暴行や住民虐殺への謝罪は一切なかった。この点に日本政府が何らかのコメントをすることが、中長期的な日韓関係の改善に役立つのではないだろうか。
≪「過去を直視せよ」は偽善か≫
朴大統領は就任以来、日本に対し「過去を直視せよ」と迫り、安倍晋三首相との首脳会談も拒否している。例えば、8月15日の光復節の演説でも、「過去を直視する勇気と相手の痛みに対する配慮がなければ未来を開く信頼を重ねていくことは厳しい」と述べた。だが、韓国兵に暴行されたベトナム人女性や虐殺されたベトナム人遺族に、「過去を直視する勇気と相手の痛みに対する配慮」を示すことはなかったのである。
日本からすれば、「日本には、『過去を直視せよ』『相手の痛みに配慮せよ』と鋭く要求しておいて、自国のことになると、知らぬ顔をしているのは偽善的ではないか」ということになる。
韓国は中国と同様、歴史問題を政治目的に利用してきた。よく韓国や欧米の知識人は、日韓の歴史認識のこじれを独仏間の和解と対比させるが、独仏間は和解への真摯(しんし)な努力をした。残念ながら、韓国は「従軍慰安婦」を「性奴隷」と決めつけたり、数を故意に膨らませたり、「軍による強制連行」説を捏造(ねつぞう)したり、慰安婦像をあちこちに建てたりして、日本の名誉を傷つけ、日本を貶(おとし)めるのに使っている。独仏関係にはない、この誠実さに欠ける態度が日本側を刺激して、河野談話の修正を求める動きにつながってきた。
この問題に関する韓国の国内事情は実は複雑で、統合進歩党をはじめ左翼政党、左翼労組、左翼教組などが北朝鮮の指示ないしは意向をくんで日韓の亀裂を画策してきたといわれている。この「従北勢力」に韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)という組織があり、慰安婦問題を執拗(しつよう)に掲げて慰安婦像をソウルの日本大使館前に設置したり、慰安婦への補償を要求したりしているとされる。
≪歴史認識を政治利用する韓国≫
韓国政治は明らかに左に振れている。一昨年のソウル市長選では左翼市民運動家の朴元淳氏が当選し、昨年12月の大統領選でも、ソウルは2大野党の民主統合党と統合進歩党を合わせた得票率が与党セヌリ党のそれを上回った。この9月初めには、先の統合進歩党関係者3人が内乱陰謀容疑で国会決議によって逮捕されている。首謀者の李石基容疑者は5月の秘密集会で、有事(北からの指示など)に備えて武器を収集し、石油、通信施設の襲撃準備をすべきことなどを協議していたという。
左翼勢力は強い反日イデオロギーを浸透させようとしており、親日派の朴正煕大統領の娘として朴槿恵大統領には歴史認識問題で日本に譲歩するのは政治的リスクが大きすぎるのであろう。大統領は韓国主要紙が安倍首相につけた、「極右ナショナリスト」のレッテルを修正するようメディアを誘導する意思もないようだ。
歴史体験が異なる国民が歴史認識の相違を簡単に解決できるわけがない。歴史認識は、それぞれの国の愛国心や誇りも絡み、関係国の政府レベルで合意に達するのは極めて困難である。歴史認識の議論は、政府間の協議事項から外して学者やジャーナリストなどの専門家に任せるしかない。
それにより、歴史認識の相違の政治利用を防止できる。9月の初めに韓国国防大学が催したシンポジウムに招かれた折、筆者は歴史認識問題を日韓政府間の協議事項から分離すべきだと提案してみたが、案の定、韓国側からは、パネリストにしろ、会場の出席者にしろ賛同の声はなかった。
≪日韓の政府協議事項から外せ≫
「それは無理だ」とし、「そんな前例があるのか」と質問してきたので、筆者は「前例はある」と言って日米間の歴史認識を説明した。「米国が広島、長崎に投下した原爆は何十万という日本の市民を殺戮(さつりく)した。これを人道的な罪だとする認識と、これ以上の米兵の犠牲を防ぐためには原爆投下によって戦争を終結するしかなかったとする認識があるが、日米はこれを政府間の協議事項とはしなかった。それによって今日強固な日米同盟ができている」と。
独仏、ドイツ-ポーランド、日本と東南アジア諸国の間の和解などが継続しているのも、歴史問題を政府レベルで議論することを封印してきたからである
実は韓国も、ベトナムに対しては歴史認識(ベトナム戦争中の韓国兵によるベトナム人に対する蛮行)を政府間の協議事項としないことで、1992年に国交を正常化している。ベトナム側が協議事項としなかったことが、韓国には幸いしたのである。日本は、韓国がこの蛮行に対して何の償いもしていないことを想起させながら、歴史問題を外して、両国間の重要な問題に取り組むべきことを促すべきではないだろうか
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北京市内の海鮮市場で売られていた「陽澄湖産」の上海ガニ。証明タグは付いているが、買い物客は「偽物だ」と言って立ち去った
高層ビルが建ち並ぶ北京市中心部で9月初め、2軒の小さな店舗の改修工事が行われていた。急ごしらえの4畳半~6畳程度の店内をのぞいてみると、空の水槽がいくつも並べられていた。そして、店舗の外壁には「陽澄湖大閘蟹」の電飾看板が掲げられていた。「陽澄湖産上海ガニ」の専売店だ。
9月下旬、水槽には水が張られ、中には無数のカニがうごめいていた。「うちは優良店。全部、陽澄湖産だよ」。1日2万元(約32万円)の売り上げがあるという40代の女性店長が、壁に掲げた証明書を指さしながら、売り口上をまくし立てた。産地から遠く離れた北京市内でも、この時期、同様の専売店が至る所に出現する。
所変わって北京市の京深海鮮市場。「陽澄湖産はある?」と尋ねて回ると、「没有(メイヨウ)(ない)」と正直な返事ばかり。やっと一軒の店で、男性店主が店舗の奥から隠すように取り出してきたカニには、蘇州市質量監督局が発行する陽澄湖産を証明するタグが付いていない。偽物だ
別の店舗でタグ付きのカニを発見した。しかし、白いはずの腹部が汚れている。甲羅が男性の拳より少し小さいだけの大ぶりなもので、1杯108元(約1730円)という。食材の調達に来ていた30代の中国人女性は、「タグも偽物が出回っている。皆知っているよ。陽澄湖産はとても少ない。そんな値段で買えるわけがない。本物なんて陽澄湖に行かなきゃ食べられない」と言って立ち去った。
中国漁業協会によると、今年の陽澄湖産の総出荷量は、夏の高温の影響で、昨年比約10%減の約2200トンにとどまる見通しだ。
◇
「菊が香れば、カニが肥える」-。中国において、秋の到来とともに上海ガニがおいしくなることを意味する俗語は数多い。「正宗(本家)」の陽澄湖産は手が届かないとしても、一般庶民にとっても待ち遠しい、秋の味覚であることには違いない。
公的機関の“お墨付き”を逆に疑い、ブランド離れしている消費者心理を見透かしてか、8月中旬、中国のインターネット共同購入サービス業者が、新商品「ドイツ産の上海ガニ」を売り出した。「ドイツで捕獲してから48時間で、中国の消費者の食卓に届ける」との触れ込みだった。
ドイツに上海ガニが渡ったのは約100年前とされている。中国からハンブルク港に寄港した貨物船のバラスト水にたまたま混入して“上陸”。エルベ川を中心に、各地に増殖していったというのが定説だ。
日本の環境省がまとめた「特定外来生物の解説」によると、上海ガニは淡水、汽水、海水のいずれにも適応し、気候や水質汚濁にも幅広い耐性を持つという。
上海ガニは1990年代以降、ドイツだけでなく英国の河川でも水質改善が進むにつれて爆発的に増加した。ただ、土手に最長2メートルの巣穴を掘る習性があり、川岸の浸食や生態系崩壊を深刻化させかねない。国際海事機関(IMO)の「侵略的外来種の世界ワースト10」にも挙げられている。
◇
元来、ドイツでは食用としてのカニになじみがなかったが、近年、ドイツ国内の中華料理店などが買い付けるようになった。中国のインターネット上でも欧州産上海ガニの試食を希望する声が沸き上がっていた。
こうした中、中国で始まった今年のドイツ産上海ガニの受け付けはわずか3日で30万杯の予約が集まった。ところが、中国の検疫当局側はドイツからの輸出申請や、輸入企業からの検疫申請がないと主張。変異などの可能性を示唆し、「消費者の健康を害し、生態環境を乱すことにつながる恐れがある」として、ドイツ産上海ガニの輸入を否定している。
官僚腐敗に対する国民の不満を緩和するため、習近平政権は公的機関の飲食接待を規制。高級飲食店は軒並み打撃を受けている。上海ガニ業界も、民間企業や個人客を対象とした「薄利多売」への転換を強いられているという。
あるインターネット共同購入サービス業者は、ミニブログで「国内のカニ業界に悪影響を与えるため、ドイツ産上海ガニの販売が許可されないのだと信じている」と発信し、当局と上海ガニ業者の癒着を疑った。消費者の一人は中国紙に、「ドイツの水は中国の水ほど汚染されていないと思うから」と、ドイツ産を予約した理由を説明している。
中国国内における国民の官僚・高官への不信感、当局と国民の意識のズレは、上海ガニを通じても、うかがい知ることができる。
焼き打ちシーンを描いた「平治物語絵巻 三条殿夜討巻」
源氏と平家の最初の本格的な戦いとなった平治の乱は平治元(1159)年12月9日夜、後白河上皇の御所、三条殿の襲撃から始まった。反上皇派の源義朝や藤原信頼らが上皇一派の最大勢力、平清盛が熊野参詣で不在中、起こした一大クーデター。目的は上皇の実権を奪い、上皇の懐刀、信西(しんぜい)入道を殺害することだ。御所に火を放ち逃げ惑う貴族や女官らに容赦なく矢を射かける。みやびやかな御所は一夜にして阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄絵巻へと変貌していった。
狂乱
いつになく寒さの厳しい夜だった。京の人々も眠りに就き、シーンと静まりかえったころ、現在の三条烏丸周辺に広がる後白河上皇の御所「三条殿」に近づく軍勢があった。
最初は遠くかすかに聞こえていた音もしだいに大きくなり、御所の前でピタリと止まった。御所は大勢の兵に囲まれた。
「何事だ」と色めき立つ御所内の貴族や女官。その瞬間、「バーン」と強烈な音で崩れる門や塀から次々と入ってくる甲冑を身にまとった武士ら。
以前から襲撃の噂が絶えなかった源義朝を中心にした軍勢だということはすぐにわかった。
広さが120メートル四方と広い御所とはいえ、多くの手勢で探したため、上皇の身柄を確保するのにそう時間はかからなかった。上皇を御所の外へ連れ出すと、義朝らは一斉に御所に火を放った。
建物が炎上し、逃げ惑う丸腰の貴族らに矢を射る容赦ない攻め。火に巻き込まれて断末魔の叫びとともに焼死する者も。
さらには猛火の熱に耐えられず、御所内の井戸の中に身を投げ、そのまま水死する女官も数多くいたという。
寝殿造の建物に州浜と池の広がる庭園。そこで繰り広げられる歌舞音曲の世界。襲撃前までは平安貴族のみやびの拠点とされた三条殿も一夜で灰燼(かいじん)に帰してしまった。
信西はどこに?
後白河上皇が前年の保元3(1158)年、息子の二条天皇に皇位を譲ったものの、以後も政治の主導権を握ったため、天皇親政を目指す反上皇派と朝廷内は分裂。
さらに上皇に登用された藤原氏の非主流・南家出身の信西が平清盛と結びつく一方、主流・北家出身の藤原信頼は信西に反感を持ちつつ、出世レースで清盛に後れをとっていた義朝と同盟関係を結ぶ。
そして、後白河親派で最大の軍事力を持つ平清盛がいない隙をついたクーデターは一応成功したかのようにみえた。
だが、襲撃の際も焼け跡を探しても、もうひとりのターゲット、信西の姿が見当たらなかった。
実は、襲撃のことを直前にキャッチした信西は南へと向かい、自領の宇治田原から大和へ入り、そこで清盛に助けてもらう算段をしていた。
そして、清盛は
クーデターの5日前、熊野参詣のため京を出た清盛は熊野本宮大社や熊野那智大社、青岸渡寺などを巡る予定だった。
ところが、御坊と田辺のほぼ中間点の熊野古道沿いにある切目王子(きりめおうじ)神社にさしかかったところでクーデターのことを知る。「いつかは」と予想していたとはいえ、それ以上に早い反白河派の動き
そして首謀者の中に、ライバル・源義朝がいることに衝撃を走らせた。
今、周囲にはわずかの手勢しかいない。「このままでは自分も」と動揺する清盛は、平家の経済的基盤・日宋貿易の拠点、太宰府まで逃げることを考える。
だが、紀州の武士や熊野三山を統括する熊野別当らの協力で100人程度の兵を集めた清盛は京へ戻ることを決心し、北へ反転を始めた。
だが、その直後、「摂津の阿倍野に義朝の長男、源義平(よしひら)が3千の兵と待ち構えている」との情報に接した清盛は再び心が揺らぐ。
源義平。通称、鎌倉悪源太。頼朝、義経の異母兄弟にあたる。久寿2(1155)年、十代半ばの義平は関東で義朝と対立する叔父・義賢の屋敷を急襲して討ち取り、その名をとどろかせた猛者中の猛者。
その評判を知る清盛は身震いを覚えたのだった。