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京都を訪れたブータンのジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王(左)とジェツン・ペマ王妃(右)。美しい金閣寺の前で、案内役の有馬頼底住職(中央)と記念撮影した=平成23(2011)年11月19日、京都市北区(鳥越瑞絵撮影)
、京都といえば避けられないのがこの2つの寺、金閣寺と銀閣寺。金閣は北山文化、銀閣は東山文化の中枢であり、京都の華やかさとわびさび的な渋さ、という両面の象徴ともいえるので、実は京都の北と東という離れた位置にあるのだけれど、ぜひあわせて参拝したい場所だ。
司馬さんも取材した“炎上”金閣
金閣寺、正式名称は鹿苑寺(ろくおんじ)。銀閣寺ともに臨済宗相国寺(しょうこくじ)派の寺院で、本山は同志社の北にある相国寺である。アニメ「一休さん」でご存じの方もいるだろうか、室町幕府3代将軍・足利義満が、公家の邸宅を譲り受けて別荘にした「北山殿」が前身。義満の没後、お寺になったそうだ。
漆の上に金箔(きんぱく)を張ったまばゆいばかりの金色の建造物・金閣は、正式には舎利殿(しゃりでん、仏舎利=ブッダの遺骨=を収める建物)で宗教的な意味合いが強い。寺に入るとすぐ池越しに金閣を見るスポットがあって、周囲が秋色に色づいてくるとさらに絶景。これからの季節がとても美しい。今週はすこーし、木々の上が色づいていたが、境内には早めに色づく紅葉があって、10月中下旬から楽しめる。
さて、産経新聞的にいうと、金閣は、大先輩の司馬遼太郎さんも取材したことで知られている。昭和25(1950)年の金閣寺放火事件だ。国宝が一瞬にして焼失したわけで、三島由紀夫や水上勉らも小説に書いた大事件だった。司馬さんは宗教担当記者で、当時の住職の村上慈海師に単独で会見したというのだから、すごい
現在の金閣は昭和30年の再建で、昭和の大修理を経て、京都駐在時代の平成15(2003)年に屋根のこけら葺きをふきかえたときに取材したことがある。そのときは、屋根がまだ木のベージュ色で新しいけれど、どこかしっくりしない感じがしたのだが、久しぶりに訪れるとすっかり色も落ち着いて、荘厳な姿になっていた。パンフレットにも載っている三層の金箔と黒漆の幻想的な内部は、実のところ写真でしか見たことがないのが残念ではあるけれど…。
銀箔が張られていなかった銀閣
銀閣寺は、正式名・慈照寺(じしょうじ)。そのうち銀閣と呼ばれる建物は「観音殿」という。もちろん国宝。
「金閣は金色だけど、銀閣は銀色じゃないね。どうして銀閣なの?」とは、よく聞かれる質問の1つだ。姿かたちも違うし、時代も違うのだけど(銀閣は8代将軍・足利義政が山荘として造営を始めた東山殿が前身)、江戸時代の書物には「金閣にならって銀箔をはった」と書かれていたらしい。「予算がなくて銀箔をはることはなかった」など、銀箔ではないというのが定説になっていたが、その長年の“謎”に近年、終止符を打つ調査結果が出た。
金閣のように漆を塗った形跡があるため、もしかしたら銀箔もはっていたのではないか?というのが調査の狙いで、現代の科学的な分析が行われた結果「銀の成分は出なかった」というもの。4年ほど前に発表されたのだが、画家の安野光雅さんいわく、「銀はすぐ黒くなるからはったわけはないよ」というので納得した。きれいに銀色に見えるのはむしろアルミの方らしい。
銀閣は銀色だったかも?というロマンはなかったが、銀閣寺の魅力の神髄は、むしろ国宝・東求堂(とうぐどう)内の四畳半の書院「同仁斎(どうじんさい)」で、一見の価値あり。素人目には普通の和室に見えてしまうが、実はそれ自体がすごいことで、つまり、今われわれが「和室」と思っているもののルーツがここにある、こちらが先輩というわけだ。秋の特別拝観が5日から始まっている。
祇園社(八坂神社)と広峯神社…牛頭天王ゆかりの神社と断層の関係図
大阪の天神祭、東京の神田祭と並んで日本三大祭りにも数えられる京都の夏の風物詩、祇園祭が来年、49年ぶりに山鉾(やまほこ)巡行を2日間に分けて開催することが決まった。長い歴史と伝統を誇る祇園祭は、平安時代の貞観(じょうがん)11(869)年、疫病がはやったために防疫の神である「牛頭天王(ごずてんのう)」(スサノオノミコト)を祭り、穢(けがれ)を払う祇園御霊会(ごりょうえ)を行ったのが始まりとされる。
信長が巨大地震を防いでいた!?
この牛頭天王は「地震神」でもあったと、歴史学者で東京大学史料編纂所名誉教授の保立(ほたて)道久氏が平成24年刊行の近著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で主張している。
祇園祭が始まったとされる前年の貞観10年夏、播磨地震と京都群発地震が起きている。理科年表によると、《播磨(兵庫)・山城(京都南部)マグニチュード7~。播磨諸郡の官舎・諸定額寺(じょうがくじ)の堂塔ことごとく頽(くず)れ倒れた。京都では垣屋に崩れたものがあった。山崎断層の活動によるものか?》。この地震ののち、牛頭天王が広峯神社(兵庫県姫路市)から京都に迎えられ、祇園祭で祭られるようになったのだ。
さらに、貞観11年5月に東北・三陸沖で起きたマグニチュード8・4とされる貞観地震では、津波により約千人が溺死。その翌年、一昨年の東日本大震災でも大きな被害を受けた清水峯神社(宮城県名取市)にも、同様に広峯神社から牛頭天王が移されたとの伝承が残っているという
牛頭天王が「地震神」でもあったとする理由について、保立氏は広峯神社と、京都で牛頭天王を祭った祇園社(八坂神社)のそれぞれの場所に着目している。
広峯神社は、播磨地震の震源となった山崎断層のそばにある。『歴史のなかの大地動乱』で、保立氏は《広峯神社の地は、姫路市の北部、夢前川が山間の峡谷から流れ出る場所の東の丘陵に位置し、山崎断層はその北奥を通っている。この断層から発した地震波が、東南に走って神戸の断層帯にあたり、そこで増幅され、さらに淀川地帯を揺らして京都群発地震を引き起こしたのである》と記している。
一方の祇園社は、花折(はなおれ)断層が伏見・東山から白河に入ってくる地点に位置している、とする。そして広峯神社、祇園社とこれらの断層との位置から、《播磨・京都群発地震を経験した人々は、地震神が播磨から京都の祇園・白川(白河)まで、地鳴りとともに巨歩を運んだとイメージしたに違いない。(中略)その翌年にはさらに陸奥で巨大な地震が発生したという訳(わけ)である。これまで、祇園会の開創はもっぱら疫病・飢饉(ききん)との関係でのみとらえられていたが、そこに地震との関係があったことは確実である》と導いている。
司馬遼「牛頭大王の御札まき縁起を…」
牛頭天王と地震との関係については、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』(文春文庫)にも、第1巻にそれを思わせる描写がある。竜馬が黒船来航によって騒然とする江戸で剣術修行に励んでいた当時は、嘉永7(1854)年に甚大な被害をもたらした安政東海・南海地震の直前にあたる。
《毎日のように微震がつづく。「やがて、どかっとくるんじゃねえか」と、町民どもは、寄るとさわるとそんなうわさをした。(中略)ちかごろ市中で目につくのは、ワイワイ天王やスタスタ坊主の多くなったことであった。一種の門付(かどづけ)芸人である。ワイワイ天王というのは、(中略)牛頭大王のおふだをぱっとまいて縁起をつけるのだ》
ところで、牛頭天王の「神紋」は「五つ木瓜(もっこう)」。織田信長の織田家の家紋と同じだ。これは、牛頭天王を祭神とする津島神社(愛知県津島市)への信仰から、織田家が家紋をとったのだといわれる。
信長がその栄華の頂点で築いた安土城には総見寺という寺院が建立され、ここに住持した「天王坊」の僧の存在が確認されている。また、信長は幼少時、名古屋にある「天王坊」という寺で勉学したともされており、牛頭天王との縁がことさら深い。
その信長の存命中、巨大地震は起きていない。ところが、これまでこの連載で述べてきたように、その後の豊臣秀吉や徳川家康の時代になって天正地震や慶長地震などの巨大地震が頻発するのだ。この奇妙な一致を牛頭天王のご加護とみたら、さすがにうがちすぎだろうか
「日韓両国間の外交問題になったのは、1992(平成4)年の朝日新聞の報道が発端だ。旧日本軍に関し、『主として朝鮮人女性を挺身(ていしん)隊の名で強制連行した』などと事実関係を誤って報じた」
読売は5月14日付紙面でも朝日について「戦時勤労動員制度の『女子挺身隊』を“慰安婦狩り”と誤って報じた」と指摘しているが、これは4年1月11日付の朝日の1面トップ記事「慰安所 軍関与示す資料」を指すとみられる。
◆確認も検証もせず
この記事は、明確な根拠は示さないまま慰安婦について「多くは朝鮮人女性」「人数は8万とも20万ともいわれる」などとも記している。現代史家の秦郁彦氏の推計では、慰安婦の総数は2万~2万数千人で、そのうち日本人が4割(朝鮮人は2割程度)を占めていたにもかかわらずだ。
さらに朝日は、吉田清治氏という「職業的詐話師」(秦氏)による「韓国・済州島で女性を強制連行した」との証言を確認も検証もしないまま信じ、繰り返し報じてきた。
吉田証言は後に、秦氏の現地調査や地元紙の済州新聞の報道で、完全に「作り話」だったことが判明した。ところが、「ひと」欄(昭和58年11月10日付)で「朝鮮人を強制連行した謝罪碑を建てる」と取り上げたり、1面コラム「窓」(平成4年1月23日付)で「吉田氏は腹がすわっている」と持ち上げたりしてきた朝日は、過去記事を訂正しようとしない。
◆報道が「お墨付き」
一方、朝日の後を追うように毎日新聞や赤旗など他紙やテレビも吉田証言を報じたため、吉田氏の嘘は世界にも広まっていった。韓国政府が4年7月にまとめた「日帝下軍隊慰安婦実態調査中間報告」や国連人権委員会に提出され、慰安婦を「性奴隷」と認定した8年の「クマラスワミ報告」も吉田証言を引用している。朝日をはじめとする日本のメディアの報道が、吉田証言にお墨付きを与えた結果でもあろう。
それでも朝日は責任を認めず、9年3月31日付の慰安婦特集記事では吉田証言に関して次のように報じている。
「朝日新聞などいくつかのメディアに登場したが、間もなく、この証言を疑問視する声が上がった」
朝日の前主筆、若宮啓文氏は今年9月に出版した著書で、名指しはしていないものの吉田証言について振り返っている。
「朝日新聞もこれ(慰安婦問題)を熱心に報じた時期があった。中には力ずくの『慰安婦狩り』を実際に行ったという日本の元軍人の話を信じて、確認のとれぬまま記事にするような勇み足もあった」
勇み足とは「やりすぎの失敗」を意味する。失敗と分かっているなら潔くそれを紙面で認め、世界でいわれなき批判を浴びている国民に謝罪すべきではないか。