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時代を見通す日本の基礎情報

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■消された「通州事件」



盧溝橋事件の約3週間後に起こった、おそるべき虐殺事件についてご存知でしょうか。北京の東にある通州というところで起きたこの「通州事件」は、今ではほとんど語られません。学校の教科書には全く出てきませんし、多くの歴史書や年表にも殆ど載っていません。若い人たちは、事件の名前すら知らない人が殆どでしょう。
 

 この通州事件は、昭和12年(1937)7月29日に起こった、中国人の保安隊による大規模な日本人虐殺事件です。殺されたのは、通州の日本軍守備隊、日本人居留民(多数の朝鮮人も含む)の約260名で、中国兵は、婦女子に至るまで、およそ人間とは思えないような方法で日本人を惨殺したのです。
 
 戦後の東京裁判で、弁護団は通州事件についての外務省の公式声明を証拠として提出しようとしました。しかし、ウェッブ裁判長によって、その申し出は却下されました。この事件にふれてしまうと、日中戦争は日本だけが悪いと言えなくなってしまうという判断があったからでしょう。ただ、通州事件の目撃者による口述書だけは受理されました。あまりに残虐な内容ですが、その一部を引用します。
 
 「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。某飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、婦人は14、5歳以上は全部強姦されていた。旭軒という飲食店に入ると、7、8名の女が全部裸体にされ、強姦射刺殺され、陰部にほうきを押しこんである者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある者など見るに堪えなかった。
 
 東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合わせて、それに八番線を通し、一家6名数珠つなぎにして引き回した形跡歴然たる死体が浮かんでおり、池の水は真っ赤になっていた。夜半まで生存者の収容に当たり、『日本人はいないか』と叫んで各戸ごとに調査すると、鼻に牛のごとく針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこそこのちり箱の中やら塀の陰から出てきた」
 
 どうでしょう、これが人間のやることでしょうか。中国の保安隊は、日本人居留民を通州城内に集め、城門を閉じ、逃げられないようにして、一斉に殺戮行為を開始したといいます。決して偶発的な出来事というわけではなく、明らかに事前準備と計画をともなった組織的な行為だったのです。
 
 当然ながら、この虐殺の報は現地の日本軍兵士を激昂させましたし、日本国内にも伝わって、国民の中国に対する怒りは頂点に達しました。
 
 盧溝橋事件は、純粋に軍どうしの衝突であり、それは現地で解決がはかられました。ところが、この通州事件は明らかな国際法違反であり、その殺し方はまさに鬼畜のしわざとも言えるものでした。当時の日本人の反中国感情はこの事件を抜きにして理解することはできないのです。また、この事件に触れずに日中戦争を語ることはできないと思います。







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韓国が教科書に載せないベトナム戦争時の虐殺と売春ビジネス

朴槿恵大統領をはじめ韓国の国家ぐるみの「反日アピール」が止まらない。慰安婦問題では、「旧日本軍が20万人の少女を強制連行して性奴隷にした」という史実と異なる嘘の主張を続け、謝罪と賠償を求めている。さらに特筆すべきは、韓国政府がベトナム戦争(1960~1975年)に参戦した韓国軍や現地に渡った民間韓国人の所業を歴史から消し去ろうとしていることだ。

 ベトナムでは戦時中から韓国への憎悪が燃え盛っていた。3月12日に発売される『日本人が知っておくべき嘘つき韓国の正体』(小学館)の中で、元朝日新聞サイゴン支局長の井川一久氏は、ベトナム戦争当時の様子をこう振り返っている。

「1972年にサイゴンに赴任した直後、私の車がベトナム人青年のオートバイと接触事故を起こし、100人近い群衆に取り囲まれるハプニングがありました。興奮した群衆は『ダイハン!(※ベトナム語で「大韓」の意)』と口々に叫びながら、憎悪に満ちた眼でこちらを睨んでいる。私を韓国人と勘違いしたのです。パスポートと記者証を見せて難を逃れましたが、現地でどれほど韓国人が嫌われているかを痛感する出来事でした」

 サイゴン(現ホーチミン)など旧南ベトナム地域では、韓国は友軍だったはずだ。しかし、韓国軍による同胞の虐殺、婦女子への暴行、凌辱はベトナム国民なら誰もが知るところであり、むしろそれらの地域で反韓感情は強かったようだ。

「韓国軍のベトコン掃討作戦で破壊された村の女性たちは、運良く逃げ出しても戦争難民になるしかなかった。そうした女性を売春ビジネスに送り込んだのが、民間の韓国人業者だったのです」(井川氏)

 ベトナム戦争では、軍属の技術者や建設、運送業者のほか、特需に肖ろうとする商人や暴力団など総計1万5000人の民間韓国人がベトナムに渡った。そうした者たちがサイゴンやダナンなど軍事基地周辺で、韓国兵や米兵相手の売春クラブを経営していたという。

「親しくしていた在ベトナム韓国軍高官の公邸で開かれた夕食会では、アオザイ姿の美しいベトナム人少女数人が甲斐甲斐しく給仕してくれました。少女をどこで集めたのか訊くと、高官は答えをはぐらかし、『気に入った娘がいたら持ち帰って構わない』と笑うのです。少女たちが戦争難民なのは明らかでした。軍民一体の管理売春が公然と行なわれていたのは間違いない。ニンホアの白馬部隊の基地には慰安所もあった」(井川氏)

 韓国教育省は先ごろ、既に検定を通過している高校歴史教科書の一部にベトナム派兵における「民間人虐殺」の記述があることを問題視し、「民間人の被害」に書き換えるよう勧告した。都合の悪い史実を改竄する露骨な歴史修正主義そのものである。

 韓国の有力紙記者は語る。

「一時はベトナムでの韓国軍の蛮行を断罪する機運が高まったが、退役軍人会などの圧力で尻すぼみになってしまった。最初にこの問題をリポートした具秀ジョン(ク・スジョン)女史も、度重なる迫害を受け海外生活を余儀なくされている」

 これは単なる日本から韓国への意趣返しの材料ではない。韓国が歴史を学び、真の先進国として世界と周辺国から尊敬を受ける国になれるかの試金石なのだ。

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家康も恐れた秀吉下命の見張り役・佐野信吉 山城降りて佐野発展の礎に

国史跡指定が答申された唐沢山城跡(栃木県佐野市富士町、栃本町)の南城跡に立つと、南側に開けた関東平野が眼下に広がる。視線の果てに水色の薄い層があり、その中に、よく言ってマッチ棒程度の何かが見えるのだが、東京スカイツリーらしい。

 空気が澄んでいた昔は江戸の町がもう少し良く見渡せた。江戸で大火があったとき、佐野信吉はすぐさま江戸城に駆けつけた。「いざ鎌倉」の忠誠心を示したつもりだが、「随分、早かったな」と聞いた徳川家康は、あまりいい気分ではなかった。

 信吉は豊臣秀吉に重用された富田家の出身。秀吉の意向で佐野氏に婿入りした。秀吉死後は家康に接近していたが、関東に閉じ込めた上に山の上からの見張り役まで付けていた秀吉の意図を思うと、家康はぞっとした。「山城を下りたらどうだ」

 逸話の真実性はともかく、信吉は唐沢山城から平地の佐野城への移転を始める。佐野市教委生涯学習課の出居博さんは「関ケ原へ向かう徳川秀忠も城に泊まるはずが、城が工事中ということで大庵寺(同市犬伏下町)に泊まったといい、興味深い」。

 城の移転に関し、出居さんは「戦って権力を維持、拡大する戦国時代から、街道沿いに城下町を築き、経済、流通を統治して地域を支配する必要があった近世への流れという時代背景を考えるべきだ」と話す。秀吉のそばで中央の政治を見てきた信吉が、戦闘での守りやすさを念頭にした関東の山城に入り、「これからの時代はオレ流で」と意気込んだ可能性もある。

佐野市中心部の社寺はこの頃、周辺部から移転。町割はそのまま現在の市街地につながる。佐野繁栄の基礎となった。小山評定では家康の意向で会場設営、諸将の宿泊施設建設など実務面での功績もある。

 ■佐野信吉(さの・のぶよし)1566~1622年。富田信高の弟で、元は富田信種。天徳寺宝衍(ほうえん)=佐野房綱(ふさつな)=の養子となって佐野氏を継ぐ。関ケ原の戦い後は佐野3万9千石を安堵(あんど)されたが、後に所領没収。

 ■小山評定 1600(慶長5)年7月、下野国小山(現在の栃木県小山市)で開かれた軍議。豊臣政権の大老・徳川家康が諸大名を率いて上杉景勝を討伐する目的で会津に向かっていたが、石田三成挙兵の知らせが入る。小山で諸将が集まり、軍勢に西に返して三成を討つことを決め、この軍勢が関ケ原での東軍となる

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金閣と銀閣 銀箔だけ張らなかったホントの理由

京都を訪れたブータンのジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王(左)とジェツン・ペマ王妃(右)。美しい金閣寺の前で、案内役の有馬頼底住職(中央)と記念撮影した=平成23(2011)年11月19日、京都市北区(鳥越瑞絵撮影)

京都を訪れたブータンのジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王(左)とジェツン・ペマ王妃(右)。美しい金閣寺の前で、案内役の有馬頼底住職(中央)と記念撮影した=平成23(2011)年11月19日、京都市北区(鳥越瑞絵撮影

、京都といえば避けられないのがこの2つの寺、金閣寺と銀閣寺。金閣は北山文化、銀閣は東山文化の中枢であり、京都の華やかさとわびさび的な渋さ、という両面の象徴ともいえるので、実は京都の北と東という離れた位置にあるのだけれど、ぜひあわせて参拝したい場所だ。

司馬さんも取材した“炎上”金閣

 金閣寺、正式名称は鹿苑寺(ろくおんじ)。銀閣寺ともに臨済宗相国寺(しょうこくじ)派の寺院で、本山は同志社の北にある相国寺である。アニメ「一休さん」でご存じの方もいるだろうか、室町幕府3代将軍・足利義満が、公家の邸宅を譲り受けて別荘にした「北山殿」が前身。義満の没後、お寺になったそうだ。

 漆の上に金箔(きんぱく)を張ったまばゆいばかりの金色の建造物・金閣は、正式には舎利殿(しゃりでん、仏舎利=ブッダの遺骨=を収める建物)で宗教的な意味合いが強い。寺に入るとすぐ池越しに金閣を見るスポットがあって、周囲が秋色に色づいてくるとさらに絶景。これからの季節がとても美しい。今週はすこーし、木々の上が色づいていたが、境内には早めに色づく紅葉があって、10月中下旬から楽しめる。

 さて、産経新聞的にいうと、金閣は、大先輩の司馬遼太郎さんも取材したことで知られている。昭和25(1950)年の金閣寺放火事件だ。国宝が一瞬にして焼失したわけで、三島由紀夫や水上勉らも小説に書いた大事件だった。司馬さんは宗教担当記者で、当時の住職の村上慈海師に単独で会見したというのだから、すごい

現在の金閣は昭和30年の再建で、昭和の大修理を経て、京都駐在時代の平成15(2003)年に屋根のこけら葺きをふきかえたときに取材したことがある。そのときは、屋根がまだ木のベージュ色で新しいけれど、どこかしっくりしない感じがしたのだが、久しぶりに訪れるとすっかり色も落ち着いて、荘厳な姿になっていた。パンフレットにも載っている三層の金箔と黒漆の幻想的な内部は、実のところ写真でしか見たことがないのが残念ではあるけれど…。

銀箔が張られていなかった銀閣

 銀閣寺は、正式名・慈照寺(じしょうじ)。そのうち銀閣と呼ばれる建物は「観音殿」という。もちろん国宝。

 「金閣は金色だけど、銀閣は銀色じゃないね。どうして銀閣なの?」とは、よく聞かれる質問の1つだ。姿かたちも違うし、時代も違うのだけど(銀閣は8代将軍・足利義政が山荘として造営を始めた東山殿が前身)、江戸時代の書物には「金閣にならって銀箔をはった」と書かれていたらしい。「予算がなくて銀箔をはることはなかった」など、銀箔ではないというのが定説になっていたが、その長年の“謎”に近年、終止符を打つ調査結果が出た。

 金閣のように漆を塗った形跡があるため、もしかしたら銀箔もはっていたのではないか?というのが調査の狙いで、現代の科学的な分析が行われた結果「銀の成分は出なかった」というもの。4年ほど前に発表されたのだが、画家の安野光雅さんいわく、「銀はすぐ黒くなるからはったわけはないよ」というので納得した。きれいに銀色に見えるのはむしろアルミの方らしい。

銀閣は銀色だったかも?というロマンはなかったが、銀閣寺の魅力の神髄は、むしろ国宝・東求堂(とうぐどう)内の四畳半の書院「同仁斎(どうじんさい)」で、一見の価値あり。素人目には普通の和室に見えてしまうが、実はそれ自体がすごいことで、つまり、今われわれが「和室」と思っているもののルーツがここにある、こちらが先輩というわけだ。秋の特別拝観が5日から始まっている。

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「卑弥呼の鏡」に新説「画文帯神獣鏡」…邪馬台国の“通説”塗り替える可能性も

ホケノ山古墳から出土した画文帯神獣鏡=平成12年3月

ホケノ山古墳から出土した画文帯神獣鏡=平成12年3月
中国大陸の魏から邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)に贈られた鏡が「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」であるとする説が、近年揺らいでいる。出土した古墳がいずれも卑弥呼の生きた3世紀ではなく、4世紀以降のもののためだ。これに代わって一躍脚光を浴びているのが、奈良県内で近年相次いで出土した3世紀の鏡「画文帯(がもんたい)神獣鏡」で、こちらを魏志倭人伝(ぎしわじんでん)にある「卑弥呼の鏡」とする見方もある。画文帯神獣鏡は中国北部の魏と異なり、南部の江南がルーツともいわれ、専門家は「卑弥呼の時代の大陸交流は魏に限らない。通説より拡大して捉えるべきだ」と提唱。研究成果次第では、邪馬台国・卑弥呼の“定説”を塗り替える可能性もある。

(野崎貴宮)

卑弥呼の時代に合致

 画文帯神獣鏡は、奈良県内では上牧町の久渡(くど)3号墳(3世紀後半)で平成23年に出土した。12年にも、最古級の古墳とされる桜井市のホケノ山古墳(3世紀中ごろ)で出土しており、12年ぶりの発見だった。いずれも中国製で、精緻(せいち)な文様がある。

 古墳から見つかる鏡では、一般に「卑弥呼の鏡」として知られる三角縁神獣鏡が有名だ。しかし、三角縁神獣鏡が出土するのは4世紀以降の古墳ばかり。卑弥呼の時代とは一致しないため、専門家の間でも、その定説を疑問視する意見が大きくなっている。

 これに対し、奈良県で相次ぎ発見された画文帯神獣は卑弥呼の時代に合致するため、3世紀の東アジアの交流を考える重要な資料と注目を集めている。

出土した鏡の真相は…

 久渡3号墳で出土した画文帯神獣鏡は現在、奈良県香芝市の二上山博物館の特別展(11月24日まで)で公開されている。

 大きさは直径14・2センチ、重さ511グラム。詳しくは「画文帯環状乳(かんじょうにゅう)神獣鏡」と呼ばれ、三角縁神獣鏡のように縁(ふち)が三角形ではなく平らなのが特徴だ。

 中央のつまみの部分「鈕(ちゅう)」の周囲には、神仙(しんせん)(仙人)と霊獣(れいじゅう)を表現した文様があり、全体で天上界(てんじょうかい)を表している。中国鏡に詳しい大阪府狭山池博物館の学芸員、小山田宏一さんは「見つかった鏡のタイプは古く、3世紀のものと考えていいだろう。中国鏡に間違いない」と言い切る。

 出土場所の久渡3号墳は、一辺が約15メートルの方墳か前方後方墳と推定され、地方の首長クラスの古墳とみられる。これに対し、別の画文帯神獣鏡が出土したホケノ山古墳は、初期ヤマト政権の都が置かれたとされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)にある前方後円墳だ。全長は約80メートルに及び、大王クラスの墓とされる。

 こちらの鏡は、詳しくは「画文帯同向式(どうこうしき)神獣鏡」と呼ばれる。久渡3号墳の鏡よりも大きく、直径は19・1センチ、重さは773グラム。「石囲い木槨(もっかく)」という丁寧に造られた埋葬施設から見つかった。

 同じ画文帯神獣鏡とはいえ、被葬者のランクに大きな違いがある。纒向遺跡を調査する纒向学研究センターの寺沢薫所長は「ホケノ山古墳の鏡は、王権(大王)が中国との交流の中で入手した鏡。しかし久渡3号墳の鏡は、大王とは違う別の勢力の下で入手された鏡だろう」と推測する。

銅鏡100枚」の記録

 魏志倭人伝によると、景初(けいしょ)3(239)年、邪馬台国の女王、卑弥呼は魏に朝貢し、木綿の布などを献上した。これに対し、魏は金印(きんいん)と銅鏡100枚などを授けたとされる。

 この銅鏡100枚は長らく、これまで古墳から数多く出土してきた三角縁神獣鏡と考えられきた。ところが、卑弥呼の時代にあたる3世紀の古墳の調査が進む中で、その通説を否定する考古学者も多くなってきた。

 奈良県立橿原考古学研究所の調査研究部長として、三角縁神獣鏡が33面出土した黒塚(くろづか)古墳(天理市)やホケノ山古墳などの調査を指揮した同県の広陵町文化財保存センター長、河上邦彦さんは「三角縁神獣鏡は国産鏡で、魏志倭人伝に登場する銅鏡100枚ではない」と断言。逆に、「画文帯神獣鏡は『銅鏡100枚』の候補の鏡のひとつと考えられる」と主張する。

 その理由として河上さんは、三角縁神獣鏡が中国国内で1枚も出土していないことや、日本でも3世紀代の古い古墳からは見つかっていないと指摘。さらに、三角縁神獣鏡にはひび割れ痕跡がたくさんあるなど、低い製造技術も理由に挙げる。

 一方で、ホケノ山古墳の画文帯神獣鏡については、「非常によい作りで、文様の鋳(い)上がりも素晴らしい」と話す。

中国南方系の鏡か

 卑弥呼の生きた3世紀の中国は、魏・呉・蜀(しょく)の「三国志」の時代にあたる。当時、鏡は中国全土で作られていたが、北部の魏だけでなく、南部の揚子江流域でも多くの鏡が製作された。そのため専門家の間でも、画文帯神獣鏡のモチーフは、南部の江南系とする見方がある

京都府京丹後市の太田南2号墳(3世紀中ごろ)でも、中国製の画文帯神獣鏡が出土しており、河上さんは、この京都府北部にヤマト王権の海外交流の港があったとみている。

 さらに中国北部の魏以外にも、倭と密接な関係があった朝鮮半島を経由し、中国南部の呉などと交流した可能性も「否定できない」とみる。

交流史の見直しも

 今年9月に橿原考古学研究所付属博物館が出版した「海でつながる倭と中国」の筆者の一人で、同館学芸課長の今尾文昭さんは、神戸市の夢野丸山(ゆめのまるやま)古墳で見つかった「重列式(じゅうれつしき)神獣鏡」に注目。倭と呉のつながりを指摘する。

 この鏡は、画文帯神獣鏡と同じように神仙と霊獣を表現。江南の浙江(せっこう)省で、227年か228年ごろに作られ、230年代に倭に持ち込まれた可能性があるという。

 これは、卑弥呼が魏に朝貢し、その返礼として銅鏡100枚などを受け取った時期とほぼ一致する。

 重列式神獣鏡の中には、呉の年号が記された鏡もある。倭と呉の間で、正式な外交関係があったという記録はないが、今尾さんは、この鏡を呉の鏡と推定する。

 「魏と呉は224年以降、断交状態になる。その場合は陸路によるルートは難しいが、倭との間には海を使った直接ルートがあったのではないか」と今尾さん。「今後、倭と呉の交流についても、よく考えていかなければならない」と問題提起する

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