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日本を取り巻くアジア情勢の変化 世界の情報を辛口で伝える情報部ログ 世の中はめまぐるしくかわっていきます その中で取り残されない為の情報をお伝えします Changing Asian situation surrounding Japan Tell the world information by information Department log The world is rapidly mood In order not to lag behind in its informed the <a href="https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=3BDZ68+72TSYA+4IRQ+5YJRM" rel="nofollow">なんでもまとめてお売りください!宅配買取「いーあきんど」</a> <img border="0" width="1" height="1" src="https://www19.a8.net/0.gif?a8mat=3BDZ68+72TSYA+4IRQ+5YJRM" alt="">
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そもそも議員バッヂは議員の身分を保障するもので、国会に入る時は必ず着用しなければならないことになっている。
以前、ベテランの秘書からこんな話を聞いたことがある。宮沢内閣の頃のことだ。
ある日、宮沢喜一首相はうっかり議員バッヂの着用を忘れた。国会内では予算委員会が開かれようとしていた。そのまま入ろうとしたが、衆議院の警備は「バッヂがないから、総理といえどもお入りいただけない」と譲らない。しかし首相が欠席しては、委員会は始まらない。ついに随行していた他の議員のバッヂを借りて、ようやく宮沢首相は院内に入れたとのこと。
この時の警備について批判はほとんどなく、概ね「よくやった」との評価だったらしい。当時と比べ現在は、議員に対してのセキュリティは緩くなっているのだろうか。一般人への警備はむしろ厳しくなっているというのに。
一般人が議員会館に入る際、全員金属探知機にかけられる。ただし議員と秘書は免除される。これが導入された時、「本当に議員を刺したいと思うのは、一般客じゃないだろ。もっと身近にいて、議員の我がままにうんざりしている人じゃないか。でもそういう人は探知機にはかけられない」と笑い話にされたことがある。
もちろん出入りの都度、議員や秘書を金属探知機にかけるのは煩わしい。だからこそ、議員バッヂや秘書通行証が交付されているわけだ。各自の「怨念」はさておき、自由に通行できるというルールが作られているわけである。
山本氏は参院の院内に入る時に拒否されるべきだった。国会は国のルール(法律)を作るところだ。ルールを知らない者を甘やかしてはならない
・宗氏の入国
対馬の歴史で最も有名なのは、代々支配していた宗氏の暗躍ではなかろうか? 実はこの宗氏の立ち回りのお陰で、その時々の朝鮮の統治者にいらぬ誤解を与えてしまっている点も大きいのだが、それはさておき。
この宗氏が対馬に入ったのは12世紀頃と言われており、元々は平氏の出ではないかと言われている。 宗氏は13世紀頃にはそもそもの在地勢力であった阿比留氏を上回る力を得て、対馬における最大勢力となった。
・蒙古襲来
1274年に元と高麗が兵数4万人・軍船900艘という大軍を率いて対馬に上陸。 宗家の当主は、この時にわずか80騎ばかりの手勢で突撃し討ち死にしている。 その後、元軍は対馬・壱岐で虐殺・略奪をしつつ九州に上陸するも、指揮官の負傷など思わぬ苦戦を強いられ撤退を決意。 だがその際に風の影響で200~300艘の船が座礁し大損害を被った。 元・高麗軍の最終的な人的被害は13,000人に及んだという。(よく言われる神風は、現在では戦闘結果自体に影響はなかったとする意見の方が多い。 南宋との決戦を控えた元が、九州における陸上戦での損害を嫌い、早々と撤退したところで暴風に遭ったという説が濃厚とされる)
1281年になると、南宋を滅ぼした元が15万という大軍を率いて再び日本に攻め入る。 この時も対馬・壱岐は抜けたものの、元軍の損害も多く、援軍の江南軍と合流して平戸を占拠するも、日本軍の圧力に苦戦する。 その最中に台風に襲われ多くの兵船が失われた。 よく言われる高麗の船が貧弱で被害が多かったというのはウソで、実際は高麗の船の方が頑丈で、出兵した兵の7割が生還できている。 それに対し、船が貧弱で致命的な被害を受けたのは江南軍だった(沈没した船の調査で大多数が江南の船だと判明している)。 元軍全体の損害として、帰還できた将兵は多く見積もっても15万人の内の6万人(一説によると1万数千人) ほどと言われており、日本側の記録では、生け捕りにした捕虜だけで2~3万人いたとされる。
・宗氏の倭寇鎮圧と朝鮮貿易独占
朝鮮は倭寇の被害に悩まされるも、独力で駆逐することができずにいた。 そこで宗氏が代わって倭寇を鎮圧。 この功を喜んだ朝鮮は、倭寇対策も兼ねて宗氏を日朝貿易の日本側窓口に指名。 これによって宗氏が朝鮮貿易利権を独占することとなった。 ちなみにこれは8代当主貞茂と、その息子貞盛の時代の話である。(宗貞茂1398年当主就任~1418年没 宗貞盛1385年~1452年)
・宗貞盛が朝鮮と嘉吉条約を結ぶ
上の記述の補足だが、宗氏は日朝貿易利権を独占するにあたり、朝鮮と条約を結び "朝鮮の外藩でもある" というポジションを得る。 これが韓国の "対馬朝鮮説" の根拠のひとつに挙げられている。
・宗氏、秀吉の朝鮮出兵に参加
日本と朝鮮の間に入ってあっちを立ててこっちを立ててと暗躍していた宗氏だったが、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には小西行長の軍勢に所属し先鋒として従軍。 釜山―漢城―平壌の攻略に活躍した。
・宗氏、幕府の命により朝鮮との国交回復に尽力
徳川幕府から朝鮮との国交を回復するように命じられた宗義智は、あの手この手で朝鮮側に打診し、1609年に日朝間の国交を回復する慶長条約(己酉約条とも呼ばれ、条約ではなく約定だとの説も) が成立する。 こうして宗氏は再び堂々と日朝貿易の利権を独占することになった。
・対馬藩(宗氏)、朝鮮からの通信使の護衛役を長年に渡って務めあげる
1811年までの間、対馬藩は朝鮮から訪れる通信使(最大で500名にも及ぶ使節団) の江戸までの護衛役を務めた。
・対馬藩(宗氏)、朝鮮との貿易じゃ儲からなくなって配置換えを要求
この話はオチである。 明治時代が近付き、段々と朝鮮貿易では利益を上げられなくなって来た対馬藩は、井伊直弼に対して 「もう朝鮮貿易じゃ儲からないので本土の適当な場所に移させて欲しい」 と打診。 これを井伊が受け入れたとされているが、桜田門外の変で殺されてしまったために "なかったこと" になる。
・番外編 ちゃっかり宗氏は華族に
維新の際にすったもんだがあったものの、宗氏はそれまでの功績を認められ華族になる。
というわけで、簡単に対馬の歴史をご紹介したが、いったいどこが "対馬は歴史的に朝鮮領" なのだろう?
重要なのは、こうした領土問題が発生した場合に、当事者同士でどうこうしようと考えるだけではなく、諸外国に対してこういった正しい歴史を証拠を添えてアピールすることである。例えばアメリカ人やヨーロッパ人などからしてみたら、アジアの歴史なんざどうでもいい話で、無知な日本人以上に何も知らないのだから、より大きな声で理路整然と意見を唱える方を支持するだけだ。従って日本はこうした歴史的事実を元にした反論を英文等に訳すなどして、広く伝え広めて行かねばならない。それを怠ると、竹島はおろか対馬まで実質支配され、国際法廷に持ちかけても 「え?でも支配してるの韓国なんでしょ?」 と言われて国土を失うことに直結する。 そういった意味では、嫌韓属性の日本人が忌み嫌う韓国人の押しの強さには、学ぶべき点が多いと言えるだろう。
ところで、今回の2話分の文章の中に、どこか差別的な発言があっただろうか? 日本の正当性を主張するのに、ネトウヨ系団体らが口にする 「朝鮮人はコロセ!」 といった品のない言葉は不要である。 そんな言葉を使わずとも、韓国の矛盾点はいくらでも挙げられるはずだ。
ではなぜネトウヨ系団体は頑なに 「朝鮮人はコロセ! 朝鮮女は犯してからコロセ!」 といった言動を改めないのだろうか? また、なぜ対馬や竹島の問題をコリアンタウンでがなり立てる必要があるのだろうか? 在日コリアンには韓国をどうこうする力などなく、むしろ差別を受ける立場にある。 そんな弱い立場の人間しかいないような場所で 「朝鮮人をコロセ!」 と叫んだところで問題は全く解決に向かわず、それどころか日本人が諸外国から軽蔑される結果にしかならない。
こうした点と点を結んで考えてみると、在特会らは結局のところ 「安全圏から朝鮮人に石を投げ付けたいだけ。 愛国を言い訳にして鬱憤晴らしをしたいだけ」 か、もしくは 「愛国心や国防精神とは別の動機がある」 のだと解る。 こうした恥ずかしい真似を早々に改めて、日本人の主張が海外に浸透するよう活動したならば、デモの度にアウトロー揃いの反レイシスト集団に襲われる事も、朝鮮学校に1,260万円などという冗談みたいな賠償金支払いを命じられる事もなかったのというのに。(余談:朝鮮学校は生徒が集まらず、在校生も家庭の事情で授業料を支払えなかったりで資金難で苦しんでいたというのに、とてもタイミングがよろしい事で。 もしかして在特会による朝鮮学校への新しい援助方法なのだろうか?)
先日の記事にも書いた言葉だが、国を愛する日本人を自称するならば、せめて恥を知ろう。 そして歴史を知って、自分達の声が世間に届くよう行動しましょう。 それが出来ない連中は、愛国者のフリをして日本に不利益をもたらそうと画策する売国奴だとレッテル貼りさせて頂きます。
という訳で、今回は 「韓国に文句があるならこうやれよ」 というお手本を示そうと思う。取り上げるテーマは 「対馬問題」 だ。
竹島に軍隊を送り込んで不法占拠(というか日本に対する侵略行為) を行っている韓国だが、それはおろか対馬までも自分達の領土だと主張している。
◇
<中央日報より一部引用>
対馬も韓国の領土'で対抗...許泰烈議員
ハンナラ党の許泰烈(ホ・テヨル)最高委員は16日、日本の独島(ドクト、日本名・竹島)領有権明記問題と関連し、「'独島は韓国の領土'と主張するより、'対馬も韓国の領土'と主張するのが効果的な対応方法だ」と主張した。
許氏は「独島が日本の領土という証拠より、対馬が韓国の領土という歴史的な考証と資料のほうが多い」と述べた。
許氏は16日に開かれた最高委員会議で「かつて李承晩(イ・スンマン)大統領も対馬が韓国の領土という主張をしたことがある」と語った。
(中略)
許氏は「歴史的に見ても対馬が日本の領土となったのは明治時代から。 対馬島主は新羅や朝鮮時代まで韓国政府が任命した」とし「その後また日本の情勢が変わり、対馬島主が日本と韓国に同じように朝貢する中立地帯だった」と説明した。
許氏は「独島が日本の領土という論拠より、対馬が韓国の領土という、より大きな論拠と証拠を持っている」とし「'対馬も韓国の領土だ'という主張で対抗するのが良い方法だ」と語った。
◇
実は韓国が対馬を自国の領土だと主張するのは今に始まったことではない。彼らは以前から「対馬が韓国領だったという証拠がある!」 と言い続けており、実際にウソをホントとすべく活動を続けている。
中でも有名なのは、李承晩政権のGHQに対する 「対馬・竹島の返還要求」 だろう。これはGHQが 「根拠がない」 として跳ね除けたが、韓国は今でも懲りずに草の根運動的に 「対馬奪還作戦」 を続けている。
[対馬は小さな韓国]
(中央日報 http://japanese.joins.com/article/565/71565.html?sectcode=400&servcode=400 より引用)
この記事では、韓国人旅行者が多いので対馬にはハングルを掲げる店が多いという内容になっているが、そもそも日本海側は韓国人の不法侵入(密入国) 問題であるとか、違法操業問題などが絶えない土地である(石川~新潟辺りも同様)。今は単に韓国からの観光客を相手にしているだけかもしれないが、竹島が何をされたかを考えてみると安心していられる状況ではない。韓国の歴史博物館の中には、敷地内に 「対馬は歴史的に韓国領である」 と書かれた石碑が置いてある場所もあるのだが、これは彼らがそれだけ本気なのだという証明になるだろう。
また、韓国の領土的な野心に対して、日本の政府(主に自民政権) はこれまで弱腰外交を繰り返し、なあなあで話を付けようと考えていたようだが、こうした領土問題でうやむや狙いというのは下策である。多少の事件・事故ならともかく領土が懸かった問題なのだから、相手に少しでも「可能性がある」と思われたら、何十年もネチネチと絡まれ続けて当たり前なのだ。捏造や実効支配をされないように、完膚なきまでに相手の主張の矛盾点を突き、こちらの主張を押し通すのが世界の常識である。
では対馬のケースではどうのような主張をすべきだろうか? 幸いな事に、対馬は歴史的に日本の領土だったという証拠がいくらでも残っている。であるなら、まずはそれらを日本人が勉強し、積極的に主張していくべきだろう。ここでは日本・中国・韓国に残る文献を元に、韓国が 「対馬は韓国領だ」 と主張する理由をひとつひとつ 「潰していく」 作業をしてみたいと思う。
韓国側が証拠として持ち出している資料の中で最も古いものは、(私が確認した限りでは) 高麗史(1085年頃) に 「対馬に "勾当官" という役職の人間を置いたという記述がある」 という点だ。ちなみに勾当官というのは要衝を統治させるために派遣した役職だと言うのだが、実はこれにウソがある。中華思想(※高麗は宋の朝貢国) においては、外交官や貿易窓口程度の役職に対しても "支配者的" なご大層かつ仰々しい名称をつけるものなのだ。まずこれを最低限の知識として覚えておかねばならない。
だがこれだけでは不確かなように思われてしまうかもしれないので、次に対馬が韓国(朝鮮半島の国家) の領土だった事実がないという証拠を並べていく。
結論から述べてしまうが、韓国は対馬が歴史的に自国領だと主張するが、実際に信頼できる資料から朝鮮と対馬の関係を見てみると、常に朝鮮(および中国の王朝) が対馬を侵略しようとして大失敗し続けているだけなのである。一時的に占拠されたという事実はあるのだが、毎回あっという間に日本に追い出され、継続して統治していたという実績がひとつもないのだ。
対馬の一部が一時的に朝鮮に占拠されたというケースで最も有名なのが応永の外冦だろう。これは1419年に李氏朝鮮が対馬に侵略軍を送り込んだという一件なのだが、これについて誰でも確認できるソースとしてwikiから引用しておく。
◇
応永の外冦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E6%B0%B8%E3%81%AE%E5%A4%96%E5%AF%87
李氏朝鮮では前年に世宗が即位していたが、実権は太宗が握っており、太宗は倭寇撃退を名目にした対馬への襲撃を決め、永楽17年(西暦1419年)6月、227隻17,285名からなる大軍を李従茂に率いさせ対馬に侵攻させた。この時期は対馬の有力者が明などに渡航して留守であることを知り、また同時に朝鮮国内の在留商人らを一斉に捕えて強制労働に当てるなど、防備の弱体に乗じ一般民衆を標的にした周到な計画であったことが知られる。また、太宗は号令の中で「古書によれば対馬は慶尚道に隷属する」と根拠の薄い主張を掲げた。6月17日に巨済島を出航したが逆風ですぐに引き返し、6月19日に再出航している。朝鮮軍は6月20日昼頃に対馬の尾崎浦(朝鮮王朝実録には豆知浦とある)附近へ上陸。一帯の一般船舶129隻を焼き払い20隻を奪い、民家1939戸を焼き払い、また104(実録には首級114)の民衆を虐殺したとされる。しかし6月26日頃には、仁位郡(実録では尼老郡)で対馬側の伏兵に遭い多大な損害を受け、李従茂の軍は尾崎浦まで退却、戦局は膠着状態に陥った。6月29日に朝鮮側は宗氏に対して対馬の属州化などを要求する使者を送るが宗氏に拒絶された。
戦況は対馬側の反撃により膠着し、損害の大きくなった朝鮮側は対馬側の和平提案を受け入れ7月3日に巨済島へ全面撤退した。朝鮮側の被害は日本の資料では死傷者2500以上、世宗実録では6月29日の記録では死者百数十人、7月10日の記録では180人とされている。しかし総数の1%程度の被害で和平を受け入れるとは考えにくく、敗戦と自ら明記していることからも、実際の被害はもっと多かったと思われる。8月5日の記録では日本の戦死者20人に対し朝鮮側が百余名とされており、正規軍での対戦では朝鮮軍は日本軍に歯が立たなかった。このような弱体な有様は、保護された中国人の扱いにおいて「対馬での朝鮮軍の弱小ぶりを詳細に見たことから中国に返還できない」という記録や、朴実が敗戦の罪により投獄され、李従茂が国民への影響を理由に免罪となった記録事からも窺える。
◇
手短にまとめると、颯爽と攻めて来たのはいいが、勝てたのは一般人相手に奇襲攻撃を仕掛けて虐殺した時だけで、対馬側が軍隊を動かして対抗して以降はボロ負けが続いて追い出されたというお話である。
このように歴史的な事実を元に考えてみると、韓国側の主張がいかに矛盾だらけかがよくわかる。
<韓国の主張>
・対馬に勾当官を置いた(1085年)
・対馬の万戸(役職名) が朝鮮に貢物を捧げてきた(1368年)
・太宗は対馬が朝鮮の属国だったから軍隊を派遣した(1419年)
・対馬島は慶尚道に隷属した(1420年)
上の一覧の矛盾点にお気付きだろうか? 韓国は高麗時代から対馬は朝鮮の領土だったと言い張っているが、ではなぜ自国領に軍隊を送り込んだのだろう? そしてなぜ朝鮮軍が撃退された記述が日本や中国の資料に残っているのに、対馬が朝鮮に降伏して属国になったという話になってしまっているのだろう?
さらに言えば、対馬は殆ど対馬軍だけで朝鮮軍を島から叩き出したのであり、実はそれは朝鮮側の資料にも "敗戦" として記録されている。しかし韓国はこの自国の資料に残る敗戦の記述を決して表に出そうとしない。証拠として高麗史などを持ち出すまではいいが、その中の都合の悪い部分を無視してロジックを組み立てているのだ。
資料という意味でさらに古い記録を持ち出すならば、有名な3世紀後半の魏志倭人伝にまで遡れてしまい、日本(倭国) の紹介として最初に出て来る名前が対馬国(對海國・對馬國)である。(ちなみに対馬国という名称が定まったのは7世紀)
では次に712年に編纂された古事記に書かれている日本神話を取り上げてみよう。
<天地開闢と国生み>
まず天と地がわかれ万物を造ったとされる造化三神が現れた。続いて何人もの神が誕生し、最後にかの有名なイザナギとイザナミが現れる。
イザナギとイザナミは、天の浮橋から海に向かって天沼矛(アメノヌボコ) を下ろして海水をかき混ぜた。その矛から零れ落ちた海水や塩が積もり積もって、最初の "地面" である淤能碁呂(オノゴロ)島が誕生する。
2人はこの島に降り立って夫婦の契りをし、国生みの儀式をしていくことになった。しかし最初はヒルコと淡島(形のあやふやな島) という不完全な子供ばかり生まれてしまい、どうしたものかと上司に相談したところ、「女から誘うのではなく、男がエスコートしろ」 と言われ、試しにイザナギがイザナミを誘ってみたら次々と健康な子供が生まれるようになった。
こうして誕生した島とその順番は以下の通り。
※ただし古事記や日本書紀、さらにはその元になった伝承によって順番や該当する島はマチマチなので、ここでは古事記の記述を紹介します。
淡道之穂之狭別嶋(アワジノホノサワケノシマ)=淡路
伊予之二名嶋(イヨノフタナノシマ)=四国
隠伎之三子嶋(オキノミツゴノシマ)=隠岐
筑紫嶋(ツクシノシマ)=九州
伊伎嶋(イキノシマ)=壱岐
津嶋(ツシマ)=対馬
佐度嶋(サドノシマ)=佐渡
大倭豊秋津嶋(オオヤマトトヨアキツシマ)=本州
これらを大八島国と呼び、これを以って日本の誕生とされる。これらの島々が生まれた順番から、実際の日本の政治的な成り立ちを妄想してみるとかなり面白いのだが、ここでは割愛する。ただ、対馬とは本州よりも早く生まれた由緒正しきイザナギとイザナミの子供だという点だけは覚えておくべきだろう。
しかしこの国生みの話は文字として記されたのが712年な上に、あくまで神話なので、次にもう少し古い歴史的な事実を持ち出してみよう。
・遣隋使、遣唐使のコース
607年に始まった遣隋使だが、合計4回派遣された全てにおいて 【九州~対馬~大陸へ】 というコースが選ばれた。 630年に始まった遣唐使でも、669年の6回目の派遣までは対馬を日本国内の拠点として経由している。 仮に対馬が朝鮮領だったとするならば、なぜ何度も何度も対馬経由のコースを選んだのだろうか? 当時の海の旅は生還率50%程度だったのだから、経由地として外国を選ぶような不確定要素は排除するのが当然ではないか?
・白村江(ハクスキノエ) の敗戦と防人
百済救済のため出兵した白村江の戦い(663年) で唐と新羅の連合軍に敗北した日本は、報復を恐れて九州に防人を置いて国土防衛にあたった(664年)。この時、筑紫や壱岐と並んで対馬にも防人が置かれ、日本の国土防衛の最前線とされた。
このように、韓国側が主張する最古の資料である高麗史(および高麗という国家の成立)より遥か昔から、対馬は日本が統治する土地であり、半島や大陸への玄関口だったのである。
「今回の3中総会で分かったことは『改革はできない』ということだ」
外交評論家の石平氏は、中国の絶望的な現状をこう語った。
3中総会で最大の焦点となったのが「国有企業改革」だった。李氏は、国家主導型のいびつな経済から、民間主導の経済発展へと転換を目指す「リコノミクス」を推進している。石油や電力、銀行など既得権益を握る国有企業に切り込むことは至上命題だった。
ところが、12日の閉幕後に発表されたコミュニケでは、「改革」という言葉が45回も踊ったのとは裏腹に、肝心の中身は「公有制を主体とし、非公有制(民営)も重視する」などとあいまいな表現に終始し、国有企業の特権は温存された。
石平氏は「改革はかけ声倒れだった」といい、「一番の壁は、既得権をがっちり握る守旧派の江沢民(元国家主席)派だ」と喝破した。
習氏が権力基盤を置くのは、中国共産党元高級幹部の子弟で構成される「太子党」と、江沢民派。国有企業にメスを入れれば、既得権集団の反発を受けて習氏の足元がグラつきかねない。事実、習氏は「公有経済、特に国有経済発展の活力を増強することを通じて非公有経済の発展を導く」と発言している。国有企業改革を目指す李氏とは、明らかに方向性を異にする。
これとは逆に、習氏が熱心に推し進めるのが反腐敗闘争だ。
習氏は昨年11月に共産党総書記に就任以降、「腐敗を根絶しなければ国が滅ぶ」として党幹部らの汚職・腐敗の一掃を掲げ、見せしめ的に一部の腐敗官僚の摘発を続け、倹約令まで発令している。
中国事情に詳しい作家の宮崎正弘氏は「いまの反腐敗闘争は、結果的にリコノミクスに打撃を与える」と指摘する。
習氏主導の「倹約ムード」のあおりを受け、宴席などで好まれる「白酒(パイチュウ)」や、中秋節の伝統的な贈答品である「月餅」の売り上げは軒並みダウン。北京市商務委員会の統計によると、今年1~5月の飲食業界の売上高は前年同期比5・6%も減少した。
経済政策を担当する李氏にとって、国内需要の冷え込みは致命傷になりかねない。腐敗の温床は、国有企業などの利権構造。ここに手をつけずに、表面的な倹約を打ち上げて景気に悪影響を与える習氏の政策は、李氏を中心とした共産主義青年団(共青団)出身グループにとって“ありがた迷惑”というわけだ。
前出の石平氏は、今後あり得る「きな臭いシナリオ」について、次のように分析する。
「李氏ら改革派が主導権奪還を図るチャンスは、江氏が死ぬ瞬間だ。そのときに、(共青団出身の)胡錦濤前国家主席が長老として影響力を確保する。それができなければ、残された道は革命しかない」
折しも中国では、収賄罪などに問われ、無期懲役が確定した薄煕来元重慶市党委書記の支持者らが今月6日、新たな政党「至憲党」を発足させた。
保守層(左派)や貧困層の間で、薄氏に対する根強い支持があり、厳罰で幕引きを図った習指導部への反発が背景にあるとされる。習氏はこうした不満をそらすためにも、毛沢東時代への原点回帰を唱えている。
宮崎氏は「体質的には至憲党は、共青団に近い。『至憲党には共産党独裁体制の終結を求めた憲章(08憲章)に関わった知識人も潜り込んでいる』との情報もある。今後、習氏と李氏のどちらが至憲党を自陣営に引き込むかという綱引きが起こる」と予測する。
中国共産党中枢での権力闘争の長期化も予想されるなか、安倍政権としては、腰をじっくり据えて対中戦略を練る必要がありそうだ。
40代50代でのセックスレスであれば、「そんなもんだろう......」と納得もできるかもしれませんが、20代30代の男女でもセックスの頻度が少なくなっているのは少々問題アリ。日本人に増加する「セックスしない症候群」は、欧米人にはまったくもって理解不能なようです。
そんな日本人のセックスレス事情を心配する声が海外でも広がっている模様で、海外メディアが取り上げた記事が話題となっています。
セックスレスの原因は日本社会にあるのかもしれません。かつてアダルト業界に従事し、現在はセックス及び人間関係専門のカウンセラーであるアオヤマアイ氏によると、現在の40歳以下の日本人は従来の人間関係に関心を失っているように見えるのだとか。
彼女がカウンセリングするのは、男女両方。しかし、その多くが交際や結婚に興味を失っている一方、将来への不安や孤独感を感じている人も多いといいます。
このような日本人が増えた背景には、日本の職場環境にある"保守的な考え方"が影響しているのではないかと言われています。女性の社会進出や出世も当たり前になっている今ですが、一部では「男は仕事、女は家庭」という考え方が根強く残っているのも事実。
一方、フランスの国営銀行で働くトミタアイリさん(32歳)は、2つの大学の学位を持ち、流暢なフランス語を話すキャリアウーマン。彼女は、3年前に彼からプロ ポーズされましたが、彼よりも仕事への興味のほうが強いと気付き、結婚を断りました。以来、誰かと付き合うことにも興味を失い、今は仕事一筋の人生を楽し んでいるのだと言います。
実際に、日本では70%近い女性が、第1子出産後に仕事を辞めてしまうという実態があります。世界経済フォーラムによると、これは世界でも最低ランクの国の1つであると位置づけられており、職場での男女平等性がまだまだ遅れているというのが現状なのです。